きょうは1年間お送りしてきた「オキナワ1945 島は戦場だった」の最終回拡大版でお伝えします。QABでは戦後65年目を迎えた今年、戦争を体験した方々の高齢化が進む中、戦争を知らない私達の世代があの沖縄…
戦争で行政機能が停止していた八重山に、65年前のきょう、アメリカ軍が軍政布告の文章を貼り出しました。 「八重山郡民に告ぐ」と書かれたこの貼紙。アメリカ軍が八重山に軍政府を樹立すると宣言したものです。日…
65年前のこの頃、ハワイに移住した県出身者たちが、沖縄に救援物資を送り始めます。1945年12月、救援物資の荷造りを終え、記念写真を撮る人々。 故郷の窮状を案じたハワイ在住の県出身者たちを中心に、衣服…
65年前のこの頃、満州にいた少女はマイナス30度の厳しい寒さの中、収容所にいました。 南風原町の石川キヨさんは1943年、15歳のときに満州に渡りました。当時、満州では日本からの満蒙開拓団が地元住民や…
65年前の12月、石垣島で小さなかまぼこ店が開業しました。 石垣島のかまぼこ店、多くのお客さんが訪れます。創業者の金城ヨシさん。戦争中は台湾に疎開していました。戦争が終わり石垣に戻ったヨシさんは65年…
65年前の年末、まだ食べるのにも困るような物不足の中、貴重な漆を探し出し、仕事を始めた職人がいました。 収容所の中で作られた嫁入り道具の衣裳櫃。本来ならば漆器になるはずでしたが、漆が手に入らず、表面に…
沖縄の初期占領政策に携わったアメリカ海軍将校について、先日お伝えしました。沖縄での経験から、人生半ばで神父となった彼の生涯は、その後も日本と深く関わりを持つことになります。 1945年、沖縄。運動会、…
65年前の12月、石川と越来の間で、沖縄本島では戦後初の電話回線が開通します。 戦争によって、明治から築き上げた電信電話の全ての施設が焼失。沖縄の電話事業は「無」の状態からの再建となりました。 石川の…
戦火を生き延びた人々は必死に生活を取り戻そうとします。しかし「戦果取り」と呼ばれた行動で多くの人が犠牲となりました。 旧居住地への復帰が認められ故郷に戻った人々は衣食住を確保することに奔走する毎日でし…
沖縄諮詢会がアメリカ軍政府に設置を求めていた警察学校が65年前のきょう、旧具志川村に開校しました。 沖縄諮旬会が正式に警察学校の設置を求めた1945年11月からおよそ一カ月後。アメリカ軍政府は旧具志川…
65年前の12月、被爆者として沖縄に帰ってきた壺屋焼の陶工がいました。 島袋常明さん「稲光がして、いい天気でも稲光があるねぇと言って天を見たら、雲が寄ってくるわけですよ。寄ってきたらパーンという音も聞…
「オキナワ1945〜島は戦場だった」拡大版です。1941年のきょう、太平洋戦争が勃発し、1945年にアメリカ軍は沖縄に上陸。島は戦場となりました。戦火を生き延びた人たちが65年まえ、復興にむけて毎日を…
65年前のきょう疎開先の台湾にいた八重山の人々を引き揚げさせるため、石垣町長は、台湾へと向かいました。 八重山から台湾に疎開した人はおよそ2500人。敗戦を知った人々は島に引き揚げるため、基隆や蘇襖南…
65年前の12月、いち早く復興が始まった那覇市の壺屋で、戦後初めての陶器が焼かれました。 1945年12月、戦後初めての窯で焼かれたお椀です。11月に先遣隊103人が戻って来た那覇市壺屋。およそ1カ月…
戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…