65年前のきょう、軍政府から警察学校の設置認可がおりました。沖縄諮詢会は、沖縄戦で解散した沖縄県警察を再構築するために保安部を創設。部長には戦前、那覇警察署の副署長を務めた仲村兼信が就任。戦前の警察幹…
65年前のきょう、ようやく那覇にも住民が帰ってきました。先遣隊は壺屋焼きの職人たちでした。陶芸の町、那覇市壺屋。毎年11月には陶器まつりが開かれ地域の子どもたちから観光客まで、大勢の人たちで賑わいます…
10月に入って、石垣島の日本軍も武装解除され日本兵はふるさとへ帰還し八重山の住民も島に帰り始めました。 アメリカ軍は奄美、沖縄本島、宮古、八重山の4群島にいた日本軍の責任者を呼び、日本の全面降伏を記し…
65年前のこの時期、宮古島では戦後の兵器処理が行われていました。宮古島では、米軍の上陸はなかったものの、戦争当初からイギリス軍太平洋艦隊による攻撃を受け、島の至る所が破壊されました。 終戦後の8月26…
終戦とともに発足した沖縄住民による行政組織沖縄諮詢会では、この頃通信部を設置、郵便の取り扱いを開始します。 沖縄諮詢会では、アメリカ軍政府から業務を引き継ぎ、1945年9月から郵便の取り扱いを開始しま…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…
65年前のきょう、戦後初の新聞が復活。収容所で新聞を待ちわびる人々に新しい新聞は何を伝えたのでしょうか。 岡田輝夫さん「米軍のほうからの要請があって収容所内での新聞が作られると」 琉球新報社にある「新…
戦争中に解散した「沖縄県警察」に代わり戦後、収容所でアメリカ軍が任命した民警察官が誕生しました。 戦火が激しさを増していた6月、当時の沖縄県警は命令により解散。66年間の歴史に幕を下ろし多くの警察官は…
6月2日、空襲が激しくなった八重山では、山岳地への住民避難が始まりました。台湾へ疎開せずに石垣島に残った住民は5月までは空襲があっても自分の家で生活をしていましたが5月末からはアメリカ軍の攻撃が激しさ…
エンディングは「オキナワ1945」島は戦場だった。首里の日本軍司令部の近く、通称「フラットトップ」と呼ばれた丘が65年前のきょう、アメリカ軍によって占領されました。 那覇市首里石嶺町にある小高い丘。頂…
5月3日、石垣島では県八重山支庁が空爆をうけ八重山における県の行政は完全に停止しました。 年明けからアメリカ軍の空爆と艦砲射撃にさらされていた石垣島。爆撃は4月からよりいっそう激しさを増していました。…
「1945島は戦場だった」きょうは拡大版リポートです。65年前の3月10日東京を襲った大空襲の被災者の一人が、今、いけばなという生きがいを見出し沖縄で力強く生きています。生け花を通して国内外の人々と交…
沖縄での地上戦がいよいよ間近に迫り多くの若者が沖縄に送り込まれていました。最高齢の写真家として活躍を続ける山田実さん。 1941年、東京の明治大学を卒業。当時、日本の大企業は次々と満州へ進出していた時…
きのう2月14日は愛する人に想いを伝えるバレンタインデーでしたが、65年前のその日、久米島の儀間港は火の海となりました。 宮城幸信さん「どこからとも無く、入ってきて、また、出て行くものだから、どこへ行…
1944年に創設された第32軍、沖縄守備軍。創設から携わった、八原高級参謀によるとその当初の任務は、南西諸島全域に飛行場をつくることでした。 空軍重視の近代戦を想定していた大本営。これに対し、八原らは…