65年前のきょうアメリカ軍は沖縄占領を目的としたアイスバーグ作戦の終了を宣言。次のターゲットを日本本土に定めます。 1945年1月にアメリカ軍がまとめたアイスバーグ作戦の計画書。その中には、目的として…
ここは、糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。 糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけで…
65年前のきょう、久米島では日本軍が久米島の住民をスパイ容疑で虐殺しました。 牛島中将が自決し、組織的戦闘は終わった沖縄戦。ところが、久米島では26日にアメリカ軍が上陸したあと、悲惨な事件が起こりまし…
アメリカ軍は那覇にあった武術の総本山も占領し、捕虜収容所は無数の日本兵で溢れました。 県庁の隣。現在は県議会棟が建っている那覇市泉崎の土地。沖縄戦当時は武術の総本山として、当時としては珍しいコンクリー…
約3000人の若い命が散った特攻機による体当たり「菊水作戦」。その作戦を支えていたのは沖縄地方気象台の職員でした。そして彼らもまた、その戦場の中で命を奪われたのです。 糸満市伊原、ひめゆりの塔の近くに…
1945年に生まれ、今年65歳になった方たちが慰霊の日を前に摩文仁の丘に集まりました。 65年前のきょう6月22日。32軍司令部のある摩文仁の丘は完全にアメリカ軍に囲まれ、敗残兵のわずかな抵抗があるだ…
65年前のきょう、牛島司令官は全ての軍に最後の命令を出しました。しかし、それは戦いの終わりを伝えるものではありませんでした。 鉄血勤皇隊として動員された県立第一中学校の少年たち。毎年6月になると、後輩…
アメリカ軍は既に摩文仁岳にあった日本軍司令部壕まで前進していました。 アメリカ陸軍総司令官のサイモン・バックナー中将はこの時、日本軍の終わりを見ていました。 この日、降伏勧告状がやっと牛島中将のもとに…
住民を巻き込んだ南部での戦いが悲惨さを増しながら激しくなる中、本土決戦に備え整備計画が日本本土で決定します。 6月16日、糸満市に与座岳がアメリカ軍によって攻略。追い詰められる日本軍と住民達はさらに南…
6月中旬、糸満の壕にいた少女を爆撃が襲います。那覇市の翁長安子さんは、看護要員として首里の住職が隊長の永岡隊と行動をともにしていました。 糸満の糸洲の壕では戦車砲や火炎放射に襲われ、命からがら逃れます…
現在の豊見城市にある旧海軍司令部壕。アメリカ軍に包囲され、すでに孤立していた司令部の大田實司令官は1945年6月13日午前1時頃、この司令官室でけん銃自決を遂げました。 13日、40回目を迎えた慰霊祭…
日本軍の後を追い、わずか1週間ほどの間に南風原、大里、豊見城、東風平、玉城を次々と突破し、南下を続けるアメリカ軍は、糸満から八重瀬岳を経て、具志頭へと至る線上まで迫り、包囲網を狭めます。 一方、アメリ…
65年の前のきょう第32軍牛島満司令官のもとにある書簡が届きました。それは、アメリカ軍沖縄占領軍部の総司令官バックナー中将からでした。 『閣下の率いる軍隊は、勇敢に戦い善戦しました—。従いまして本官が…
65年前のきょう、首里の住職が率いる永岡隊は、糸満で再び合流し、生きていることを喜び合いますがそれもつかの間でした。 首里の安国寺の住職・永岡敬淳が率いる「永岡隊」。沖縄県人で編成された永岡隊は、第3…
南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。 65年前のきょう撮影された写真。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化してい…