「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。 慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属し…
終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します 1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。 日本の無条件降伏が決定した8…
顔を抑える女性・・・首をロープに巻かれ倒れている人その人に必死にしがみつく子ども。これは65年前のきょう久米島で起きたむごたらしい事件です。 久米島住民虐殺を調査している上江洲盛元さん「首に紐をくくっ…
65年前のきょう、敗戦後の占領方法などを話し合う日本の「降伏使節団」を乗せた飛行機が伊江島飛行場に着陸しました。 国民が敗戦を知った15日から4日後。日本が降伏したあとの占領方法などについて、連合国側…
65年前のきのう、日本国民は玉音放送で敗戦を知ります。しかし、沖縄では殆どの住民が終戦を知りませんでした。 玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」 65年前のきのう、ラジオを通じて、多く…
65年前のきょうもアメリカ軍の掃討作戦が続けられた沖縄。当時のアメリカ軍の情報機関、G2による戦時記録にはこう記されています。 「8月13日、本島。日本兵28人を殺し、日本兵3人、朝鮮人軍夫2人を捕ら…
沖縄本島では組織的な戦闘が終わって2ヶ月近く過ぎたこの頃、八重山諸島ではまだ戦闘に備えている学徒隊がいました。 八重山では1945年3月に県立八重山農学校、八重山中学校、八重山高等女学校の生徒達が学徒…
65年前の8月中旬、沖縄戦が終わったのを知らず、逃げ惑っていた少年兵たちがいました。 宮平盛彦さん「女の子なんかが、ところどころ潮だまりがあるでしょ、そこに浮いていたりして、本当に痛ましい状況でした」…
前日、長崎に新型爆弾・原子爆弾が投下され、日本は敗戦を覚悟します。この新しい虐殺兵器を知った沖縄に従軍していた一人のアメリカ兵士は嘆きの声をあげました。 8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本に宣…
65年前のきょう、長崎に原子爆弾を落としたアメリカ軍。この最悪の任務と沖縄は無関係ではありませんでした。 65年前のきょう、アメリカ軍は長崎市の上空で原子爆弾を投下。午前11時2分、高度およそ500メ…
65年前のきょう午前8時15分、アメリカ軍は人類史上初の核兵器・原爆を広島に投下します。 65年前のきょう「戦争を早く終結させ兵士たちの命を守る」という名目のもとアメリカ軍がとった選択「原子爆弾」。 …
7月から発行をはじめた戦後初の新聞「うるま新報」。しかし、新聞はアメリカ軍政府の支配下でのスタートでした。 戦後初の沖縄の新聞として7月25日に創刊された「うるま新報」。アメリカ軍政府の機関紙と位置づ…
アメリカ軍は7月2日に「沖縄作戦の完了」を宣言したものの、しかしその後も本島各地に潜伏する敗残兵たちとの間で戦闘を続けていました。激戦地となった浦添の前田高地や最後の戦闘地島尻地区にはこの時点になって…
沖縄戦が始まってすぐにアメリカ軍の収容所が置かれた石川市。8月には今の県立博物館の前身「沖縄陳列館」が開館しました。 うるま市石川にあるこの古い建物は、戦後アメリカ軍によって作られた東恩名博物館の跡で…
アメリカ軍は日本の軍国主義などの思想を排除するため、子どもたち向けの沖縄独自の教科書を作る編集所を軍政本部内に設置します。 沖縄戦のさなか、すでに中北部にはアメリカ軍が収容所内に学校を開設。学校には子…