南部で母を亡くし父親と生き別れた少年は収容所で軍作業に従事していました。 玉那覇盛章さんは南部の激戦地を逃げ惑った末、海岸にいるところを捕虜として連行されました。父とは別々の収容所に連行され、民間人だ…
65年前。戦争当時15歳だった玉那覇さんの体験です。 玉那覇さん「目はね開かないんだけど息もね絶えてですね即死状態」 玉那覇盛章さん80歳。当時15歳の少年でした。65年前の6月。親子3人で南部を逃げ…
65年前のきょう、沖縄からアメリカ陸軍が撤退を開始。軍政統治の権限を海軍に移行させるためでした。 9月2日にアメリカ軍は、それまで陸軍が担っていた軍政統治作戦を海軍に移行する命令を出します。「アメリカ…
戦争で多くの人が家を失いましたが、その住宅不足を解消しようと考案された仮設住宅が次々と建設されました。 戦争ですべてを焼かれた住民たちは収容所に集められ、窮屈なテント生活を送っていました。 そんな状況…
65年前のきょう、糸満市米須の徳元孝助さんは宜野湾市野嵩の捕虜収容所にいました。 アメリカ軍が進攻した本島南部。米須の徳元さんは、ひめゆりの塔の下にある壕に家族と避難。しかし、日本軍に追い出され、近く…
住民や学生まで動員された沖縄戦。国民以外でも、朝鮮半島から強制的に連行された多くの人々がいました。 捕虜となり、学徒隊と写真に納まる、ひと際大きな体をした「朝鮮人軍夫」。当時、日本の植民地だった朝鮮か…
終戦を迎えても日本軍による住民虐殺が続いた久米島。65年前のきょう その日本軍は、アメリカ軍に投降し久米島から 完全退去しました。 譜久里廣貞さん「こっちに兵舎小屋があったんですよ鹿山がそこにいたんで…
65年前のきょう、日本の降伏調印に伴い、南西諸島の日本軍も降伏文書に調印。正式に沖縄戦が終結しました。 旧越来村、現在の嘉手納基地内で行われた降伏調印式には第32軍司令官・牛島満中将が自決したため、守…
65年前のきょう、新聞が住民待望の郵便の復活を伝えました。 当時の1通の手紙。残っているのはこの封筒のコピーだけです。終戦直後、貨幣経済は崩壊していたため、郵便は無料で、切手は貼られていません。戦禍で…
65年前のきょう、本島北部でまだ戦闘を続けていた日本軍の部隊が投降します。 1944年7月に長崎の佐世保で編成された第27魚雷艇隊。編成後、魚雷艇は次々と沖縄本島北部の運天港に造られた基地に移送されま…
65年前のきょう、日本は連合国との「降伏文書」に署名し、正式に連合国に降伏しました。一方沖縄では、沖縄諮詢会を中心に独自の統治に動き出していました。 降伏文書への署名は、東京湾の海上、アメリカ軍の戦艦…
沖縄戦では、20数万人の犠牲者が出ただけではなく凄まじい戦火によって数多くの歴史的建造物が破壊されました。65年前のきょうの糸満です。艦砲射撃や迫撃によって地上のあらゆるものは焼きつくされています。か…
8月下旬、アメリカのマッカーサー元帥が沖縄に到着。連合国の占領統治にむけ、マッカーサー自身が視察に訪れたのです。 8月下旬、アメリカ軍がすでに占領していた読谷飛行場にフィリピンのクラーク空軍基地から1…
海上を戦場としていた第22震洋隊は8月下旬、屋嘉収容所周辺で終戦を迎えることとなります。 8月下旬、終戦を知ったひとつの部隊が武装解除し、捕虜となります。第22震洋隊です 太平洋戦争末期、日本海軍が起…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…