65年前の10月、茶どころで知られるうるま市石川・山城区の住民が収容所から地元へ帰る準備を始めていました。 戦前からお茶の生産地として知られるうるま市石川の山城区。1935年に住民の共同作業で始まった…
親を失った子どもたちが預けられたコザの孤児院。65年前のこの頃、そこで暮らした少年は、先生の深い愛情に母のぬくもりを感じていました。 戦後65年目にして初めて行われたコザ孤児院の慰霊祭。当時の先生たち…
65年前のきょう、石川収容所内に設けられていた学校は人口の増加に伴い、3つの学校に分かれます。 行政機構、沖縄諮詢会がおかれ政治の中心となっていた石川市。石川市では各地区との連絡や会議が行われ、沖縄本…
65年前のこの時期、4月には既にアメリカ軍に制圧されていたコザでは、一足早い戦後が始まっていました。 沖縄市の戦後の住民の暮らしを紹介する展示施設「ヒストリート」。このガラスのコップは、アメリカ兵が飲…
10月、疎開先の熊本で終戦を迎えた大城ミヨさんは変わり果てた故郷の姿に愕然とします。 大城ミヨさん「生きてて良かったねって言った時に、何とも言えませんでした、母が抱きついてきてね。それが脳裏から離れま…
終戦直後、日本軍の爆弾などが各地で海中に投棄されましたが、当時16歳の少年もその作業に携わっていました。 手登根恵貴さん「下崎という、この辺りの場所に弾はみんな落とされているわけです」 手登根さんは当…
65年前のこの時期、アメリカ軍からの食料配給が各地で滞ります。その対策に乗り出したのが住民と軍政府をつなぐ沖縄諮詢会でした。 アメリカ軍政府が民間人に食料の配給を始めたのは6月ごろから。しかし9月には…
65年前のこのころ、収容所では住民たちがアメリカ軍の作業をして生活物資を得る軍作業が始まりました。 本島上陸以降、アメリカ軍は沖縄守備軍と闘いながら、次々と住民を収容所へ送り込みました。琉球大学の川平…
10月には運動会シーズンですが、65年前のこの頃、早くも再開した学校で運動会の練習に励んでいた少年がいました。 那覇市に住む宮城定吉さん(77歳)。7人家族だった宮城さんは南部で家族5人を失い、戦後は…
日本の勝利を信じて山奥に隠れていた女性が65年前この頃、人里へ降りてきました。 喜屋武達子さん「どんなことがあっても降参しない。勝つつもりなんですよね」 喜屋武達子さん(81歳)は、ひめゆり学徒隊の最…
この写真は1944年の10月10日、10・10空襲に襲われる那覇市の様子。いまの那覇軍港のあたりが爆撃を受け、黒煙が上がっています。この大空襲、そして地上戦の中を生き延びた看護学生の少女は、65年前の…
戦後2番目の高校、コザ高校が開校。授業の再開、同級生との再会。そこにはふたつの喜びがありました。 花城さん「だいたいあの一帯あたりでした。今はその跡形もない」 65年前の10月7日、沖縄市・室川小学校…