日本の勝利を信じて山奥に隠れていた女性が65年前この頃、人里へ降りてきました。 喜屋武達子さん「どんなことがあっても降参しない。勝つつもりなんですよね」 喜屋武達子さん(81歳)は、ひめゆり学徒隊の最…
この写真は1944年の10月10日、10・10空襲に襲われる那覇市の様子。いまの那覇軍港のあたりが爆撃を受け、黒煙が上がっています。この大空襲、そして地上戦の中を生き延びた看護学生の少女は、65年前の…
戦後2番目の高校、コザ高校が開校。授業の再開、同級生との再会。そこにはふたつの喜びがありました。 花城さん「だいたいあの一帯あたりでした。今はその跡形もない」 65年前の10月7日、沖縄市・室川小学校…
沖縄戦に参加したアメリカ兵士の日記を紹介します。 1945年10月7日(日)きょうもまた待機だけだった。こんな無意味な仕事から抜けられるのはいつの日になるのやら、とふと考えた。 この本は「アメリカ一水…
八重山でも着々と武装解除は進み、物々しい兵器が処分されましたが、島は戦火とは別の恐怖に苦しめられていました。 8月29日、石垣島では日本とアメリカの会議が開かれ八重山の武装解除が始まりました。八重山の…
65年前のこのころ、収容所の住民はアメリカ軍からの配給で命をつないでいました。 配給所で列を作る住民たち。65年前のこのころ、各地に設置された収容所の住民には、アメリカ軍から必要最小限の食糧が与えられ…
沖縄戦で解散した沖縄県警。警察組織の復活に向けて、沖縄諮詢会がアメリカ軍政府に働きかけを行います。 沖縄戦のさなか、6月9日、島田叡知事と荒井退造沖縄県警察部長は県警に解散命令を出し、66年間の歴史に…
9月に再開された郵便事業、65年前のきょう、久米島ではいち早く切手の使用が始まりました。 9月4日、石川の沖縄諮詢会がアメリカ軍から引継いで再開した郵便事業、沖縄本島では翌年7月まで郵便物は無料で配布…
鉄血勤皇隊員として沖縄戦に参加した当時17歳の神谷依信さん、糸満の摩文仁でアメリカ軍の捕虜となり、船でハワイへと送られました。 神谷依信さん「1500隻の軍艦で真っ黒になっていた。海の色が見えないくら…
65年前のこの時期、宮古島では戦後の兵器処理が行われていました。宮古島では、米軍の上陸はなかったものの、戦争当初からイギリス軍太平洋艦隊による攻撃を受け、島の至る所が破壊されました。 終戦後の8月26…
沖縄を占領統治していたアメリカ軍政府は戦後復興の一環として芸能を奨励し、収容所では様々な踊りや音楽が披露されました。 金武町屋嘉に設置された捕虜収容所です。収容所ではアメリカ軍の管理の下、芸能に使う舞…
9月下旬、石垣島は無政府状態に置かれ、人々の心は荒れ果てていました。 八重山諸島の守備軍だった八重山旅団本部は停戦の詔書を受け、現地で徴集した地元の青年兵の招集を解除。その後、日本兵の招集も解除されま…
沖縄を占領統治していたアメリカ軍政府は、戦後初の市議会議員選挙と市長選挙を実施。本土に先駆けて沖縄の女性が参政権を得ました。 1945年9月、沖縄の16の市町村で戦後初の議会議員選挙と市長選挙が実施さ…
鉄血勤皇隊の一員だった元沖縄県知事の大田昌秀さんが投降したのは65年前のこのころでした。当時の出来事が、大田さんのその後の人生に大きな影響を与えました。 沖縄師範学校本科2年生だった大田昌秀さんは学徒…
戦争で殆どの家屋が破壊された沖縄では住宅の確保は食料と同じように深刻な問題でした。 上空から見た終戦直後の石川市です(現在のうるま市石川)戦災でほとんどの家は焼失していて集落の端に難民収容所のテント小…