1945年3月から5月にかけ、県警や県庁職員が避難しつつ職務を遂行したのが那覇市の「県庁壕」でした。 那覇市の識名霊園近くの「シッポージヌガマ」を整備したこの壕は「県庁壕」と呼ばれています。 県民の県…
65年前、政府は学校の授業を1年間停止することを決定します。 主要都市の殆どがアメリカ軍の大空爆を受け緊迫する事態の中、政府は臨時閣議を開き「決戦教育措置要綱」を発表。国民学校初等科を除き、4月から1…
住民、学徒総出で決戦の日に備えていた沖縄。しかし、日本軍の戦況は悪くなるばかりで、沖縄守備隊も部隊配属の変更など、戦いの前から苦しい状況となります。 ごつごつとした石灰岩の岸壁。そこには自然に出来た窪…
65年前の今日は積徳高等女学校の生徒たちが南部に入って看護実習を始めて三日目。二度と泣かないと誓約書を書かされた少女もいました。 仲里ハルさん「君らは軍服こそつけていないが初年兵だということで、ものす…
3月上旬、県内の女子学生たちにいよいよ動員命令がくだります。 65年前の3月6日。この日、県内の女学校4校に動員命令が下りました。このうち、積徳高女とともに看護教育のために24師団野戦病院に動員された…
65年前の3月6日に公布された「国民勤労動員令」。「兵隊以外の国民も労働力を提供せよ」というものでした。 議会の審議もなく勅令として公布された「国民勤労動員令」は、それまでの「国民徴用令」など労務提供…
空襲が激しくなる中、八重山の高等女学校の生徒たちに看護術教育が実施されました。 日本軍はアメリカ軍の進攻を阻止するため、旅団を置いた石垣島で徹底抗戦の作戦に出ました。しかし、空襲は日増しに激化。このた…
1945年3月上旬、県外への疎開が打ち切られます。1944年7月から始まった県外疎開は、沖縄本島・宮古、八重山、奄美などから10万人の子どもや高齢者を本土や台湾へと移送する計画でしたが、県民が最初のう…
日本軍は石垣島飛行場の延長工事とともに、戦闘機の格納庫の建設も始めていました。 アメリカ軍の空襲が激しさを増す中、日本軍は石垣島飛行場の2本目の滑走路の建設に乗り出します。空港を建設すれば戦闘機の格納…
65年前の3月、まだ10代の少年少女たちも戦場へと駆り出されます。 当時の県学務課と軍により、学徒の戦場動員が前年12月に決定。通信技術などの訓練はすでに始まっていました。 県内の中等学校のうち一番早…
異国の戦争のために強制的に動員された朝鮮人の軍夫達。沖縄でも過酷な労働を負わされ、その殆どが、祖国の土を2度と踏むことなく人生を終えました。 太平洋戦争中、沖縄に強制的に連行されてきた朝鮮人軍夫。65…
「軍神」として祀られた大舛大尉を称える劇。その劇を見た少年は−。 山下さん「徹底的に一人残らず戦えという教育がありましたから」 1943年、県立第一中学に入学した山下久雄さん。しかし、学業を受けたのは…
65年前のきょうの新聞には相反する2つの記事が掲載されています。沖縄師範学校の入学考査を規定どおり実施するという広告記事。その一方で同じ紙面には戦局緊迫に伴って3月1日出陣することとなった沖縄師範学校…
教師を志し、師範学校に入ったはずの女学生たち。この頃から看護訓練は始まっていました。 65年前、かつての南風原国民学校は陸軍病院として使われていました。この頃から、ここではひめゆり学徒たちの看護訓練が…
沖縄での地上戦がいよいよ間近に迫り多くの若者が沖縄に送り込まれていました。最高齢の写真家として活躍を続ける山田実さん。 1941年、東京の明治大学を卒業。当時、日本の大企業は次々と満州へ進出していた時…