5月3日、石垣島では県八重山支庁が空爆をうけ八重山における県の行政は完全に停止しました。 年明けからアメリカ軍の空爆と艦砲射撃にさらされていた石垣島。爆撃は4月からよりいっそう激しさを増していました。…
65年前のきょうアメリカ軍の前線は浦添に入り牧港飛行場を占領しました。 牧港飛行場は1944年に日本陸軍が「沖縄南飛行場」として建設。1830メートルの滑走路を持つ一人乗りの小型特攻機用の飛行場でした…
65年前のきょうアメリカ軍は浦添まで迫りました。そこに配置されていたのが首里高等女学校、ずいせん学徒隊の生徒たちです。 4月24日宜野湾嘉数の最前線を突破したアメリカ軍は二日後の26日、浦添での激戦を…
65年前のきょうは、伊江島の戦闘が終結した日です。芳魂の塔では平和祈願際が行われ、島は一日祈りの日となりました。その伊江島ではきょう、もう1つの慰霊祭が行われました。 島の西端、今はアメリカ軍の基地と…
ここに1冊の記念誌があります。1945年に喜如嘉国民学校を卒業した生徒たちが発刊したものです。「20会」という名前は沖縄戦の年、昭和20年に卒業したことから名付けられました。記念誌に盛り込まれた年表か…
1945、佐久本喜範さんは鉄血勤皇隊として金武へ。空襲が激しくなった3月下旬、県立二中の5年生だった少年は、鉄血勤皇隊として金武に配属されました。 佐久本喜範さん「小禄(飛行場の)掩帯壕づくりとか高射…
きのう2月14日は愛する人に想いを伝えるバレンタインデーでしたが、65年前のその日、久米島の儀間港は火の海となりました。 宮城幸信さん「どこからとも無く、入ってきて、また、出て行くものだから、どこへ行…
65年前のきょう、首里にあった首里高等女学校4年生に看護教育が始まります。 宮城さん「1月25日、戦争が近づいたり、戦争が沖縄に来たらみんな看護婦になってくれと」 首里高等女学校。卒業式も間近に迫った…
1944年に創設された第32軍、沖縄守備軍。創設から携わった、八原高級参謀によるとその当初の任務は、南西諸島全域に飛行場をつくることでした。 空軍重視の近代戦を想定していた大本営。これに対し、八原らは…
沖縄守備軍・第32軍のナンバー2だった長勇参謀長。牛島司令官とともに摩文仁で自決を遂げた長勇は福岡出身。喧嘩っ早い豪傑で知られる軍人でした。 その長参謀長は1月11日、首里で民間人を相手に直々に講演を…
空襲が激しくなり県民が地上戦を意識し始めたころ、食糧の増産も本格化しました。 1945年の年頭、沖縄県は農作物の「総合生産計画」を発表。中でも力を入れたのは、主食だったイモの増産でした。 自然が相手で…
1945年1月、日本軍は「空襲警報発令時の警戒対策」を各地に通達します。 旧玉城村奥武島は1月22日に大規模な空襲に見舞われました。この直前、6日に日本軍から警報時の警戒対策が通達されました。 「道路…
1945年、アメリカ軍はそれまでの台湾侵攻作戦を放棄し1月6日、沖縄侵攻作戦「アイスバーグ作戦」をまとめました。「3月までに南西諸島で拠点をひとつ、あるいはそれ以上占領し、沖縄に軍事基地を確立すること…