65年前のきょう、アメリカ軍政府と沖縄諮詢会は、組織的な地方行政を創設する必要から、「地方行政緊急措置要綱」を発令します。これによって難民収容所に市制が布かれることとなりました。 局地的な戦闘やアメリ…
終戦を迎えても日本軍による住民虐殺が続いた久米島。65年前のきょう その日本軍は、アメリカ軍に投降し久米島から 完全退去しました。 譜久里廣貞さん「こっちに兵舎小屋があったんですよ鹿山がそこにいたんで…
終戦とともに発足した沖縄住民による行政組織沖縄諮詢会では、この頃通信部を設置、郵便の取り扱いを開始します。 沖縄諮詢会では、アメリカ軍政府から業務を引き継ぎ、1945年9月から郵便の取り扱いを開始しま…
沖縄戦では、20数万人の犠牲者が出ただけではなく凄まじい戦火によって数多くの歴史的建造物が破壊されました。65年前のきょうの糸満です。艦砲射撃や迫撃によって地上のあらゆるものは焼きつくされています。か…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…
65年前のきょう,久米島では、また日本軍による住民の虐殺がありました。日本軍は、自分たちを守ってくれると思っていました? 喜友村さん「それは、片方ではあるしね,アメリカもほんとに何もしないのか それも…
沖縄近海で多くの若い命が散った特攻作戦は日本の敗戦後、最後の犠牲者を出して終わりました。 海軍中将、宇垣纏。太平洋戦争開戦時は連合艦隊の参謀長で、沖縄戦では4月から展開された特攻作戦、菊水作戦を指揮し…
アメリカ軍は7月2日に「沖縄作戦の完了」を宣言したものの、しかしその後も本島各地に潜伏する敗残兵たちとの間で戦闘を続けていました。激戦地となった浦添の前田高地や最後の戦闘地島尻地区にはこの時点になって…
65年前のきょう、戦後初の新聞が復活。収容所で新聞を待ちわびる人々に新しい新聞は何を伝えたのでしょうか。 岡田輝夫さん「米軍のほうからの要請があって収容所内での新聞が作られると」 琉球新報社にある「新…
戦争中に解散した「沖縄県警察」に代わり戦後、収容所でアメリカ軍が任命した民警察官が誕生しました。 戦火が激しさを増していた6月、当時の沖縄県警は命令により解散。66年間の歴史に幕を下ろし多くの警察官は…
65年前の今日、積徳女学校の看護隊のハルさんたちは解散命令のあと地獄をさまよい、捕虜になりました。積徳高等女学校の生徒25人が看護隊として入っていた糸州の壕。ここに、司令部の玉砕と「最期まで戦え」とい…
「オキナワ1945~島は戦場だった」約2ヶ月間にわたり繰り広げられた特攻機による「菊水作戦」では、約3000人の若い命が散りました。この作戦を遂行する上で、沖縄地方の天気は重要な情報でした。戦時中の気…
65年前のきょう、第32軍の総司令官、牛島満中将が自決。司令官が残した命令は戦場をさらに混乱させました。 日頃は、固く閉ざされた摩文仁の総司令部壕。65年前のきょう牛島中将はこの壕で自決しました。牛島…
エンディングは「オキナワ1945」島は戦場だった。65年前のきょう、アメリカ軍は摩文仁などを占領し、「日本軍の組織的抵抗は終わった」と記録しています。 アメリカ軍が沖縄本島への攻撃を開始してから80日…
エンディングは「オキナワ1945」島は戦場だった。首里の日本軍司令部の近く、通称「フラットトップ」と呼ばれた丘が65年前のきょう、アメリカ軍によって占領されました。 那覇市首里石嶺町にある小高い丘。頂…