戦後65年の2010年の1年間、ステーションQのエンディングで放送した、「オキナワ1945島は戦場だった」が、日本の放送文化に貢献した団体などに送られるギャラクシー賞の「優秀賞」を受賞しました。 ギャ…
65年前のこの頃、ハワイに移住した県出身者たちが、沖縄に救援物資を送り始めます。1945年12月、救援物資の荷造りを終え、記念写真を撮る人々。 故郷の窮状を案じたハワイ在住の県出身者たちを中心に、衣服…
65年前のきょう、ひとりの警察官がアメリカ兵に射殺される事件が起きました。崎原恒喜さん(当時27)。玉城村の船越警察署に勤務していました。妻だった敏子さんはこう振り返ります。 敏子さん「頼りにされる人…
65年前のきょう、軍政府から警察学校の設置認可がおりました。沖縄諮詢会は、沖縄戦で解散した沖縄県警察を再構築するために保安部を創設。部長には戦前、那覇警察署の副署長を務めた仲村兼信が就任。戦前の警察幹…
沖縄戦で家族や友人の命を失い、打ちひしがれた人々の心を慰めようと、石川収容所に笑いで“ともし火を”ともす人物がこの頃現れました。 小那覇全人さん「(父は)天性のユーモリストじゃなかったかなと思いますね…
65年前のきょう、ようやく那覇にも住民が帰ってきました。先遣隊は壺屋焼きの職人たちでした。陶芸の町、那覇市壺屋。毎年11月には陶器まつりが開かれ地域の子どもたちから観光客まで、大勢の人たちで賑わいます…
65年前、ひとりのアメリカ軍将校が当時の様子を知る資料をマイクロフィルムに記録していました。 「食事は一日一度」「野菜や海藻でしのいでいる」「助けてほしい」 65年前の11月、宮古島、平良町長からアメ…
65年前の11月。10歳の少年はいっしょに逃げていた両親を戦場で失いました。安里宗次郎さん75歳。65年前の梅雨のころ、両親と弟の4人で南部の自然壕 に身を潜めていた時、父は防衛隊へとられ、壕は日本軍…
65年前のこの時期、アメリカ軍からの食料配給が各地で滞ります。その対策に乗り出したのが住民と軍政府をつなぐ沖縄諮詢会でした。 アメリカ軍政府が民間人に食料の配給を始めたのは6月ごろから。しかし9月には…
10月に入って、石垣島の日本軍も武装解除され日本兵はふるさとへ帰還し八重山の住民も島に帰り始めました。 アメリカ軍は奄美、沖縄本島、宮古、八重山の4群島にいた日本軍の責任者を呼び、日本の全面降伏を記し…
この写真は1944年の10月10日、10・10空襲に襲われる那覇市の様子。いまの那覇軍港のあたりが爆撃を受け、黒煙が上がっています。この大空襲、そして地上戦の中を生き延びた看護学生の少女は、65年前の…
65年前のこの時期、宮古島では戦後の兵器処理が行われていました。宮古島では、米軍の上陸はなかったものの、戦争当初からイギリス軍太平洋艦隊による攻撃を受け、島の至る所が破壊されました。 終戦後の8月26…
戦争で殆どの家屋が破壊された沖縄では住宅の確保は食料と同じように深刻な問題でした。 上空から見た終戦直後の石川市です(現在のうるま市石川)戦災でほとんどの家は焼失していて集落の端に難民収容所のテント小…
65年前の9月、沖縄市の前身となる「コザ市」が成立します。旧越来村、嘉間良を中心に越来・室川、安慶田の3部落にわたる広大な収容所はアメリカ軍によって「キャンプ・コザ」と呼ばれていました。 「コザ」の由…
沖縄戦が終り島中がまだ混乱に包まれていた頃、沖縄本島に巨大な台風が近づいていました。日本を縦断した台風の経路図。1945年9月13日頃に発生した台風16号。のちに枕崎台風の名で昭和三大台風の一つに上げ…