1938年に開園し、国が隔離政策でハンセン病患者を収容した沖縄愛楽園には、1944年の日本軍の一斉収容で沖縄全域から900人あまりの患者が集められました。 そして、当時の早田園長の指揮のもと、体の不自…
沖縄各地で戦闘が激しさを増す中、与那国では宇良部岳の監視台が空爆を受けました。 地元では「与那国富士」と親しまれている宇良部岳には頂上付近に日本軍の監視台が設置され、アメリカ軍・イギリス軍の戦艦や戦闘…
「1945島は戦場だった」きょうは拡大版リポートです。65年前の3月10日東京を襲った大空襲の被災者の一人が、今、いけばなという生きがいを見出し沖縄で力強く生きています。生け花を通して国内外の人々と交…
アメリカ軍の上陸が迫る中、本島中南部から国頭地区への疎開が本格的に始まります。 65年前のきょうの沖縄新報。そこには国頭地方への疎開者に対する食糧計画が確立されたという記事があります。 「特に疎開者に…
1945年、県食糧配給課では米や芋、野菜など従来の作物に頼っては自給体制は追いつかないとして、1月から2月にかけ代用食の研究を専門家に委嘱します。 当時の県立図書館長・城間朝教をはじめ、県農業試験場や…
年明けから始まったアメリカ軍の八重山への空襲は、1月19日から昼夜を問わず本格的な爆撃へと突入しました。 日本軍にとって石垣島は、沖縄本島から台湾に連なる生命線であり、分断を避けるため、2つの飛行場を…
空襲が激しくなり県民が地上戦を意識し始めたころ、食糧の増産も本格化しました。 1945年の年頭、沖縄県は農作物の「総合生産計画」を発表。中でも力を入れたのは、主食だったイモの増産でした。 自然が相手で…
1945年1月、日本軍は「空襲警報発令時の警戒対策」を各地に通達します。 旧玉城村奥武島は1月22日に大規模な空襲に見舞われました。この直前、6日に日本軍から警報時の警戒対策が通達されました。 「道路…