75年前に起きた学童疎開船「対馬丸」の悲劇。それは決して過去の出来事として終わらせるものではありません。対馬丸が今の私たちに残す教訓とは何なのか考えます。 中村清さん「火花をあげて上に(船が)持ちあが…
75年前の22日、米軍の攻撃によって、児童など1484人が犠牲になった疎開船「対馬丸」の慰霊祭が営まれました。 撃沈事件から75年の22日、那覇市の「小桜の塔」では午前11時から慰霊祭が営まれました。…
太平洋戦争末期、東京から各地に疎開した子どもたちの生活を伝える特別展が那覇市の対馬丸記念館で開かれています。 特別展では、太平洋戦争末期、東京の子どもたちが疎開先で描いた600日にも及ぶ絵日記や記念写…
沖縄戦の時、波照間島の人たちがマラリアの有病地帯である西表島に強制疎開させられ、島の30%もの人々が亡くなった「戦争マラリア」。強制疎開を迫った人物について証言を追いました。 日本最南端の島、波照間島…
67年前、アメリカ軍の魚雷の攻撃を受けて沈没し、およそ1500人が犠牲になった対馬丸の慰霊祭が22日、那覇市で開かれました。 対馬丸は1944年、沖縄の子どもたちや引率者を疎開させようと長崎に向かって…
67年前、アメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没し子どもたちなどおよそ1500人が犠牲になった対馬丸の慰霊祭が那覇市で開かれています。那覇市の小桜の塔には朝早くから対馬丸の生存者や遺族たちが集まり、手を合わ…
65年前の12月、石垣島で小さなかまぼこ店が開業しました。 石垣島のかまぼこ店、多くのお客さんが訪れます。創業者の金城ヨシさん。戦争中は台湾に疎開していました。戦争が終わり石垣に戻ったヨシさんは65年…
10月、疎開先の熊本で終戦を迎えた大城ミヨさんは変わり果てた故郷の姿に愕然とします。 大城ミヨさん「生きてて良かったねって言った時に、何とも言えませんでした、母が抱きついてきてね。それが脳裏から離れま…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…
65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。 県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜に…
1945年3月上旬、県外への疎開が打ち切られます。1944年7月から始まった県外疎開は、沖縄本島・宮古、八重山、奄美などから10万人の子どもや高齢者を本土や台湾へと移送する計画でしたが、県民が最初のう…
アメリカ軍の上陸が迫る中、本島中南部から国頭地区への疎開が本格的に始まります。 65年前のきょうの沖縄新報。そこには国頭地方への疎開者に対する食糧計画が確立されたという記事があります。 「特に疎開者に…
65年前のきょう、小磯国昭内閣は沖縄戦を想定し、女性や子どもなどを本島北部に疎開させることを閣議決定します。 陸軍大将・小磯国昭は1944年7月に第41代の首相に任命され、政策・軍事面で行き詰っていた…
第二次世界大戦中、尖閣諸島近海でアメリカ軍の攻撃を受け、沈没した疎開船の遭難者の冥福を祈る慰霊祭が3日に石垣市で行われました。 1945年7月3日、石垣から台湾へ向かった集団疎開船「第五千早丸」がアメ…
美ら島の提案です。古くなった民家を解体したときに出る、多くの古い材木はこれまで廃材として捨てられ、焼却されていました。しかしこの古い木材を新たな建材としてよみがえらせる「古材リサイクル」が注目を集めて…