沖縄戦で最後の激戦地となった糸満市摩文仁では全戦没者追悼式が開かれています。中継です。 灼熱の日差しが照り付ける中、先ほど始まった追悼式典には安倍総理や翁長知事のほか、多くの県民や遺族らが参列し平和へ…
アメリカ軍の通訳として沖縄戦に従軍した日系3世の男性が70年ぶりに沖縄を訪れています。91歳になるハワイ出身の日系3世、ハロルドオクムラさんは、沖縄戦当時の1945年、日本語で住民に投降を呼びかけたり…
6月23日は『慰霊の日』です。沖縄で、組織的な戦いが終結した日から68年。糸満市の平和祈念公園では、県主催の全戦没者追悼式が行なわれています。 『こちらでは、例年通りの青空の下、多くの人々が参列し、式…
16日、糸満市摩文仁の平和祈念公園内で沖縄戦の戦没者のものとみられる遺骨が入った土のう袋が発見されました。 県などによりますと16日の午前7時ごろ、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある管理事務所の駐車場で…
戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…
戦争で多くの同僚を失った元県職員たち。慰霊碑建立の動きが次第に高まっていきました。 沖縄戦最後の激戦地・糸満市摩文仁にある島守の塔。65年前の今頃はまだ砲弾の跡が生々しく残り、多くの亡骸が横たわってい…
鉄血勤皇隊員として沖縄戦に参加した当時17歳の神谷依信さん、糸満の摩文仁でアメリカ軍の捕虜となり、船でハワイへと送られました。 神谷依信さん「1500隻の軍艦で真っ黒になっていた。海の色が見えないくら…
65年前のこの頃、親や兄弟と離ればなれになった孤児たちがピークに達していました。 傷の手当を受ける子、カメラを寂しそうに見つめる子どもたち。 65年前のこの頃、沖縄戦で親を亡くした乳児から20歳未満の…
1945年に生まれ、今年65歳になった方たちが慰霊の日を前に摩文仁の丘に集まりました。 65年前のきょう6月22日。32軍司令部のある摩文仁の丘は完全にアメリカ軍に囲まれ、敗残兵のわずかな抵抗があるだ…
アメリカ軍は既に摩文仁岳にあった日本軍司令部壕まで前進していました。 アメリカ陸軍総司令官のサイモン・バックナー中将はこの時、日本軍の終わりを見ていました。 この日、降伏勧告状がやっと牛島中将のもとに…
27日に首里を撤退した32軍司令部は、南風原の津嘉山を経て、5月30日に糸満市摩文仁にある新しい司令部壕に到着します。 アメリカ軍のバックナー中将は、沖縄守備軍が首里を放棄することはなく、必ず抵抗して…
エンディングはオキナワ1945島は戦場だった。新聞配達の少年に話しかけていたのはのちに摩文仁で自決する事になるあの軍人でした。 翁長良義さん。当時13歳だった翁長少年は毎朝、首里で新聞配達をしていまし…
2009年度、沖縄本島で収集された沖縄戦で亡くなった人達の遺骨の納骨式が29日に糸満市摩文仁の国立戦没者墓苑で行われました。納骨式には県や5市町村の関係者らが参列しました。 式では、厚生労働省社会援護…
1945年3月から5月にかけ、県警や県庁職員が避難しつつ職務を遂行したのが那覇市の「県庁壕」でした。 那覇市の識名霊園近くの「シッポージヌガマ」を整備したこの壕は「県庁壕」と呼ばれています。 県民の県…
那覇市真嘉比で2009年に収集された、沖縄戦で亡くなった人々の遺骨が、15日に平和祈念公園に収められました。この遺骨収集は2009年10月から2カ月間、那覇市の緊急雇用創出事業として行なわれ、失業者な…