1945年、次第に激しさを増してくる戦争のため、卒業式ができなかった糸満国民学校の卒業生が22日、67年の時を経て修了証書を手にしました。 1945年3月23日に行なわれる予定だった糸満国民学校の卒業…
65年前のきのう、日本国民は玉音放送で敗戦を知ります。しかし、沖縄では殆どの住民が終戦を知りませんでした。 玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」 65年前のきのう、ラジオを通じて、多く…
沖縄戦記録フィルム「1フィート運動の会」の代表を勤める福地曠昭さんの著書「村と戦争」です。 『6月23日に沖縄戦は終わったといわれるが沖縄の‘終戦゛は各個人によって違いがある』『喜如嘉でも7月中旬まで…
首里の防衛に死力を尽くす第32軍ですが、アメリカ軍は泊高橋方面から那覇に進入します。 那覇市に突入するアメリカ軍の様子を捉えた写真、左に見える建物は泊国民学校です。 65年前のきょう、アメリカ軍は泊高…
沖縄本島の総攻撃が始まって2日目のきょう、与那国島の国民学校では入学式が行われました。 与那国島を襲う激しい空襲。与那国国民学校は1945年2月以降、授業ができなくなっていました。しかし4月2日、国民…
3月6日から、東風平国民学校で看護教育をたたき込まれた仲里ハルさん。積徳高等女学校に通う16歳の少女でした。 2週間後、ハルさんたちは25人の仲間とともに、豊見城城址にあった第二野戦病院に配属されまし…
65年前、政府は学校の授業を1年間停止することを決定します。 主要都市の殆どがアメリカ軍の大空爆を受け緊迫する事態の中、政府は臨時閣議を開き「決戦教育措置要綱」を発表。国民学校初等科を除き、4月から1…
65年前の今日は積徳高等女学校の生徒たちが南部に入って看護実習を始めて三日目。二度と泣かないと誓約書を書かされた少女もいました。 仲里ハルさん「君らは軍服こそつけていないが初年兵だということで、ものす…
教師を志し、師範学校に入ったはずの女学生たち。この頃から看護訓練は始まっていました。 65年前、かつての南風原国民学校は陸軍病院として使われていました。この頃から、ここではひめゆり学徒たちの看護訓練が…