きょう9月7日は、70年前、沖縄戦が正式に終結した日です。糸満市の県平和祈念資料館では、子どもたちに「戦後」の生活を伝える企画展が始まりました。 70年前のきょう、沖縄にいた日本軍が無条件降伏を受け入…
終戦直後の民間収容所と復興をテーマにした資料展がうるま市で開かれています。 この資料展は、民間収容所から復興を目指して歩んできた人々の姿を知ってもらおうとうるま市が主催したものです。 資料展では、民間…
沖縄戦当時に本島北部の収容所で埋葬されたとされる遺骨を収集してほしいと、遺骨収集ボランティアの代表が県に対し要請しました。2日に要請を行ったのは、遺骨収集ボランティアガマフヤー代表の具志堅隆松さんです…
戦争体験を語り継ぐ東京の平和祈念展示資料館の巡回展が糸満市で開かれています。巡回展は1990年から始まり、沖縄での開催は2回目です。 東京の平和祈念展示資料館は戦争体験を「兵士」「抑留」そして「引揚」…
戦前から戦後の人々の暮らしを今に伝える宜野湾市立博物館の新収蔵品展が開かれています。 今回の収蔵品展は、2010年度中に市民から寄贈された219点が「くらし」や「遊び」などのテーマ別に展示されています…
65年前の年末、まだ食べるのにも困るような物不足の中、貴重な漆を探し出し、仕事を始めた職人がいました。 収容所の中で作られた嫁入り道具の衣裳櫃。本来ならば漆器になるはずでしたが、漆が手に入らず、表面に…
戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…
収容所から戻るときに家族の遺体を掘り起こすケースが多発したため、アメリカ軍は65年前の今日、密葬や洗骨の禁止令を出しました。 宜野座小学校の敷地にあったアメリカ軍の野戦病院。当時7歳で、左腕の骨が見え…
65年前のこのころ、収容所から戻った少年が見たのは、地上戦の犠牲になった住民の姿でした。 渡久地昇永さん「毎日もう10名ぐらいの人が亡くなって」 1945年6月、アメリカ軍が名護市辺野古に設置した大浦…
65年前、共に戦火を逃げ惑った母と娘は捕虜となり送られた収容所で生き別れてしまいました。 屋嘉比敏子さん「こういう格好の人を見ませんでしたかって言ったら『その方は昨日亡くなられたのに』(と聞いた)。私…
65年前のこのころ、収容所や病院などでは生死もわからなかった家族との再会のドラマがありました。 島袋文子さん「捕虜にされた時の怖かったこと。見たら赤毛の青い目の身長の高いのがいっぱいいて」 6月、南部…
すべてが不自由だった戦後の暮らし。住民達はアメリカ軍が投下した爆弾の破片など、使えるものはすべて生活に利用しました。 これは、アメリカ軍が火炎放射に使用したとみられるボンベを鐘として再利用していたこと…
65年前の10月、茶どころで知られるうるま市石川・山城区の住民が収容所から地元へ帰る準備を始めていました。 戦前からお茶の生産地として知られるうるま市石川の山城区。1935年に住民の共同作業で始まった…
65年前のこのころ、収容所では住民たちがアメリカ軍の作業をして生活物資を得る軍作業が始まりました。 本島上陸以降、アメリカ軍は沖縄守備軍と闘いながら、次々と住民を収容所へ送り込みました。琉球大学の川平…
65年前のこのころ、収容所の住民はアメリカ軍からの配給で命をつないでいました。 配給所で列を作る住民たち。65年前のこのころ、各地に設置された収容所の住民には、アメリカ軍から必要最小限の食糧が与えられ…