15世紀の末、当時の首里王府の圧政に抵抗し、住民の先頭に立って戦ったといわれる「オヤケアカハチ」を偲ぶ慰霊祭が5日に石垣市で行われました。 慰霊祭はオヤケアカハチが住んでいたという石垣市大浜の住民が、…
戦争で多くの同僚を失った元県職員たち。慰霊碑建立の動きが次第に高まっていきました。 沖縄戦最後の激戦地・糸満市摩文仁にある島守の塔。65年前の今頃はまだ砲弾の跡が生々しく残り、多くの亡骸が横たわってい…
9月20日から26日は動物愛護週間です。那覇市では愛犬を自由に走らせることができるドッグランがお目見えしました。 ドッグランは広場に囲いを設けてその中で犬を自由に走らせるもので、普段リードでつながれて…
先島のハンセン病医療の拠点施設、宮古南静園の慰霊祭が23日に行われ参列者が508柱の御霊に静かに手を合せました。 納骨堂の前で行われた慰霊祭には園の入所者や退所者、また職員らが参列し全員で哀悼の意を捧…
宜野湾市にある慰霊碑に供えてあった千羽鶴が、何者かによって燃やされ警察が器物損壊事件として捜査しています。 宜野湾警察署によりますと千羽鶴は、宜野湾市の、嘉数の塔に供えてあったもので、13日、朝6時ご…
太平洋戦争当時、南洋群島での戦闘で犠牲となった県出身者の慰霊のため、遺族らが4日、サイパンに向けて出発しました。 南洋群島に向けては、去年まで、県内から墓参団として40回にわたり慰霊を続けてきましたが…
現在の豊見城市にある旧海軍司令部壕。アメリカ軍に包囲され、すでに孤立していた司令部の大田實司令官は1945年6月13日午前1時頃、この司令官室でけん銃自決を遂げました。 13日、40回目を迎えた慰霊祭…
65年前の4月2日、集団自決で80人余りが亡くなった読谷村のチビチリガマで3日慰霊祭が行われました。 慰霊祭には、遺族などおよそ30人が参加し、祭壇に線香や重箱をお供えして、手を合わせました。1945…
沖縄戦当時、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没した学童疎開船対馬丸の慰霊祭が22日に那覇市で行われました。対馬丸は65年前の22日、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童775人を含む14…
第二次世界大戦中、尖閣諸島近海でアメリカ軍の攻撃を受け、沈没した疎開船の遭難者の冥福を祈る慰霊祭が3日に石垣市で行われました。 1945年7月3日、石垣から台湾へ向かった集団疎開船「第五千早丸」がアメ…
今から65年前の沖縄戦前夜、アメリカ軍の攻撃をうけ沈没した学童疎開船、「対馬丸」の犠牲者の為に3日、子ども達がシーサーを製作しました。那覇市壺屋小学校で自らの体験を語った生存者の上原清さんは「今も海に…
太平洋戦争当時、南洋諸島での戦闘に巻き込まれた犠牲者を供養する最後の南洋墓参団が26日朝、サイパンへ出発しました。40回目のツアーには、10代から90代の遺族250人あまりが参加していて今回初めて南洋…