南部で母を亡くし父親と生き別れた少年は収容所で軍作業に従事していました。 玉那覇盛章さんは南部の激戦地を逃げ惑った末、海岸にいるところを捕虜として連行されました。父とは別々の収容所に連行され、民間人だ…
戦争で多くの人が家を失いましたが、その住宅不足を解消しようと考案された仮設住宅が次々と建設されました。 戦争ですべてを焼かれた住民たちは収容所に集められ、窮屈なテント生活を送っていました。 そんな状況…
65年前のきょう、日本は連合国との「降伏文書」に署名し、正式に連合国に降伏しました。一方沖縄では、沖縄諮詢会を中心に独自の統治に動き出していました。 降伏文書への署名は、東京湾の海上、アメリカ軍の戦艦…
「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。 慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属し…
沖縄戦が始まってすぐにアメリカ軍の収容所が置かれた石川市。8月には今の県立博物館の前身「沖縄陳列館」が開館しました。 うるま市石川にあるこの古い建物は、戦後アメリカ軍によって作られた東恩名博物館の跡で…
アメリカ軍は日本の軍国主義などの思想を排除するため、子どもたち向けの沖縄独自の教科書を作る編集所を軍政本部内に設置します。 沖縄戦のさなか、すでに中北部にはアメリカ軍が収容所内に学校を開設。学校には子…
65年前のきょう、収容所のあった石川に初めて高校が誕生しました。 うるま市の城前小学校に建つ教育発祥の地の碑。この場所で65年前のきょう、石川高校の開校式が行われました。 伊波秀雄さん「終戦直後ですか…
65年前、日本への無条件降伏を求めた「ポツダム宣言」を拒否したこの日、沖縄では沖縄守備隊の作戦参謀・八原高級参謀の尋問が始まりました。 知念村屋比久の収容所で7月15日、身分がばれ、逮捕された「八原高…
65年前のきょう、戦後初の新聞が復活。収容所で新聞を待ちわびる人々に新しい新聞は何を伝えたのでしょうか。 岡田輝夫さん「米軍のほうからの要請があって収容所内での新聞が作られると」 琉球新報社にある「新…
65年前の7月、捕虜になった人々が収容所で混乱した日々を送っていたころ、アメリカ本国ではある計画が進行していました。 1945年4月。沖縄に上陸したアメリカ軍が侵攻を続けていたころ、第33代アメリカ大…
65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。 県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜に…
65年前のきょう、玉城村百名で小学校が開校。その目的は、子どもたちの命を守ることでした。 南城市玉城百名の百名初等学校跡地。百名には収容所が置かれ、避難民が続々と集まっていました。食料の乏しい収容所で…
県内各地に設けられた収容所。そのひとつ、知念村屋比久の収容所で65年前の7月15日、一人の日本兵が逮捕されました。 八原高級参謀長。 32軍司令部で牛島司令官、長参謀長と共に沖縄戦の戦略を練ってきた人…
日本軍による組織的な戦闘が終わった後も多くの敗残兵が南部に残り、7月に入っても断片的な戦闘は続きます。 投降のビラをアメリカ兵に手渡し、血だらけの状態で捕虜となる日本兵。本島南部では第32軍を率いた牛…
アメリカ軍は那覇にあった武術の総本山も占領し、捕虜収容所は無数の日本兵で溢れました。 県庁の隣。現在は県議会棟が建っている那覇市泉崎の土地。沖縄戦当時は武術の総本山として、当時としては珍しいコンクリー…