65年前のきょう、日本は連合国との「降伏文書」に署名し、正式に連合国に降伏しました。一方沖縄では、沖縄諮詢会を中心に独自の統治に動き出していました。 降伏文書への署名は、東京湾の海上、アメリカ軍の戦艦…
8月下旬、アメリカのマッカーサー元帥が沖縄に到着。連合国の占領統治にむけ、マッカーサー自身が視察に訪れたのです。 8月下旬、アメリカ軍がすでに占領していた読谷飛行場にフィリピンのクラーク空軍基地から1…
海上を戦場としていた第22震洋隊は8月下旬、屋嘉収容所周辺で終戦を迎えることとなります。 8月下旬、終戦を知ったひとつの部隊が武装解除し、捕虜となります。第22震洋隊です 太平洋戦争末期、日本海軍が起…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…
「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。 慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属し…
終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します 1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。 日本の無条件降伏が決定した8…
顔を抑える女性・・・首をロープに巻かれ倒れている人その人に必死にしがみつく子ども。これは65年前のきょう久米島で起きたむごたらしい事件です。 久米島住民虐殺を調査している上江洲盛元さん「首に紐をくくっ…
65年前のきょう、敗戦後の占領方法などを話し合う日本の「降伏使節団」を乗せた飛行機が伊江島飛行場に着陸しました。 国民が敗戦を知った15日から4日後。日本が降伏したあとの占領方法などについて、連合国側…
沖縄近海で多くの若い命が散った特攻作戦は日本の敗戦後、最後の犠牲者を出して終わりました。 海軍中将、宇垣纏。太平洋戦争開戦時は連合艦隊の参謀長で、沖縄戦では4月から展開された特攻作戦、菊水作戦を指揮し…
65年前のきのう、日本国民は玉音放送で敗戦を知ります。しかし、沖縄では殆どの住民が終戦を知りませんでした。 玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」 65年前のきのう、ラジオを通じて、多く…
65年前のきょうもアメリカ軍の掃討作戦が続けられた沖縄。当時のアメリカ軍の情報機関、G2による戦時記録にはこう記されています。 「8月13日、本島。日本兵28人を殺し、日本兵3人、朝鮮人軍夫2人を捕ら…
沖縄本島では組織的な戦闘が終わって2ヶ月近く過ぎたこの頃、八重山諸島ではまだ戦闘に備えている学徒隊がいました。 八重山では1945年3月に県立八重山農学校、八重山中学校、八重山高等女学校の生徒達が学徒…
65年前の8月中旬、沖縄戦が終わったのを知らず、逃げ惑っていた少年兵たちがいました。 宮平盛彦さん「女の子なんかが、ところどころ潮だまりがあるでしょ、そこに浮いていたりして、本当に痛ましい状況でした」…
前日、長崎に新型爆弾・原子爆弾が投下され、日本は敗戦を覚悟します。この新しい虐殺兵器を知った沖縄に従軍していた一人のアメリカ兵士は嘆きの声をあげました。 8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本に宣…
65年前のきょう、長崎に原子爆弾を落としたアメリカ軍。この最悪の任務と沖縄は無関係ではありませんでした。 65年前のきょう、アメリカ軍は長崎市の上空で原子爆弾を投下。午前11時2分、高度およそ500メ…