戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…
アメリカ軍政府と沖縄諮詢会が教育の再建に取り組む中、当時、学校での授業は英語で行おうという動きがありました。 収容所内の治安のため、子どもたちを集めることから始まった戦後の教育ですが、青空教室からコン…
沖縄戦では多くの酒造所も壊滅し終戦後、泡盛作りもゼロからのスタートを始めました 具志堅盛輝さん「昭和20年、こっちに来た時は酒は何もなかったよ」 名護市の市街地にある昔ながらの佇まいを残す津嘉山酒造所…
65年前のきょう、ひとりの警察官がアメリカ兵に射殺される事件が起きました。崎原恒喜さん(当時27)。玉城村の船越警察署に勤務していました。妻だった敏子さんはこう振り返ります。 敏子さん「頼りにされる人…
戦場だった65年前のこの頃、戦争で親を失い孤児院で生活していた少年が里親に引き取られました。 宮城定吉さん「おどおどして、大人の顔色うかがって生活していた。ずっと」 沖縄戦で親を失い、身寄りのなかった…
戦後、沖縄を占領したアメリカ軍のある将校が、終戦直後の沖縄の様子をカラーフィルムに残していました。 1945年、伊江島で微笑むアメリカ海軍、ニール・ローレンス少佐。海軍軍政府の経済部長として、沖縄の戦…
10月頃から芸能関係者を石川収容所に集めたアメリカ軍は、この頃から本格的に芸能による戦後復興に力を注ぎ始めます。 うるま市立石川歴史民俗資料館に常設展示されている手作りの紅型。アメリカ軍から支給された…
戦争で貴重な人材を数多く失った沖縄。65年前のこの頃、戦後初の人材育成機関・沖縄文教学校の開校が報じられます。 11月下旬「ウルマ新報」に掲載された専門学校開設の記事。 「新生沖縄の建設途上全住民のた…
戦争で多くの同僚を失った元県職員たち。慰霊碑建立の動きが次第に高まっていきました。 沖縄戦最後の激戦地・糸満市摩文仁にある島守の塔。65年前の今頃はまだ砲弾の跡が生々しく残り、多くの亡骸が横たわってい…
収容所から戻るときに家族の遺体を掘り起こすケースが多発したため、アメリカ軍は65年前の今日、密葬や洗骨の禁止令を出しました。 宜野座小学校の敷地にあったアメリカ軍の野戦病院。当時7歳で、左腕の骨が見え…
65年前、ひとりのアメリカ軍将校が当時の様子を知る資料をマイクロフィルムに記録していました。 「食事は一日一度」「野菜や海藻でしのいでいる」「助けてほしい」 65年前の11月、宮古島、平良町長からアメ…
65年前のこのころ、収容所から戻った少年が見たのは、地上戦の犠牲になった住民の姿でした。 渡久地昇永さん「毎日もう10名ぐらいの人が亡くなって」 1945年6月、アメリカ軍が名護市辺野古に設置した大浦…
沖縄の警察組織の再構築を目指していた沖縄諮詢会は65年前のきょう、アメリカ軍政府に警察学校設置計画を提出します。 沖縄戦で解散した沖縄県警に代わり、各地域の収容所ではアメリカ軍政府の隊長が警察署長と民…
65年前、共に戦火を逃げ惑った母と娘は捕虜となり送られた収容所で生き別れてしまいました。 屋嘉比敏子さん「こういう格好の人を見ませんでしたかって言ったら『その方は昨日亡くなられたのに』(と聞いた)。私…
65年前、県内では食料物資などの配給だけで現金の流通はありませんでしたが、8月から10月末まで、久米島ではアメリカ軍政府が金券を発行していました。 貨幣史研究家・山内昌尚さん「アメリカ軍政府が人々を基…