65年前の3月、まだ10代の少年少女たちも戦場へと駆り出されます。 当時の県学務課と軍により、学徒の戦場動員が前年12月に決定。通信技術などの訓練はすでに始まっていました。 県内の中等学校のうち一番早…
異国の戦争のために強制的に動員された朝鮮人の軍夫達。沖縄でも過酷な労働を負わされ、その殆どが、祖国の土を2度と踏むことなく人生を終えました。 太平洋戦争中、沖縄に強制的に連行されてきた朝鮮人軍夫。65…
「軍神」として祀られた大舛大尉を称える劇。その劇を見た少年は−。 山下さん「徹底的に一人残らず戦えという教育がありましたから」 1943年、県立第一中学に入学した山下久雄さん。しかし、学業を受けたのは…
65年前のきょうの新聞には相反する2つの記事が掲載されています。沖縄師範学校の入学考査を規定どおり実施するという広告記事。その一方で同じ紙面には戦局緊迫に伴って3月1日出陣することとなった沖縄師範学校…
教師を志し、師範学校に入ったはずの女学生たち。この頃から看護訓練は始まっていました。 65年前、かつての南風原国民学校は陸軍病院として使われていました。この頃から、ここではひめゆり学徒たちの看護訓練が…
戦争の足音が近づく中、県内の各中学校では「防衛隊」が編成されました。 首里高校の前身、県立第一中学校の戦没者を慰霊する一中健児の塔。きのうここを、広島の大学生たちが訪れました。 65年前のきょう、県内…
65年前、日本軍は近づく地上戦に向けて地下の防空壕で生活するよう県民に要求します。 「横穴を増強せよ!」「日常生活は地下で!」 65年前のきょうの新聞には、それまで一時的な待機場所として使用されてきた…
女子学生あこがれのセーラー服。その服装も戦時体制とともに変わっていきます。 宮城巳知子さん「自分たちは昭和16年入学だから、2年間は女学生らしい生活で楽しかったです」 宮城巳知子さん。太平洋戦争開戦直…
アメリカ軍の上陸が迫る中、本島中南部から国頭地区への疎開が本格的に始まります。 65年前のきょうの沖縄新報。そこには国頭地方への疎開者に対する食糧計画が確立されたという記事があります。 「特に疎開者に…
1945年、県食糧配給課では米や芋、野菜など従来の作物に頼っては自給体制は追いつかないとして、1月から2月にかけ代用食の研究を専門家に委嘱します。 当時の県立図書館長・城間朝教をはじめ、県農業試験場や…
65年前の2月、近づく戦争の足音に当時の行政は緊急態勢に入りました。 1945年2月、県はいよいよ行政体制を戦時体制へと移行しました。新聞にはその体制について、県政の中央の機能を各地方に分散させる機構…
今年1月から毎日番組の最後にオキナワ1945 島は戦場だったと題して65年まえのその日なにが起きたのかお伝えしていますが、短い時間ではお伝えできないものを特集でお送りします。今回は、65年前の2月6日…
65年前のきょう、久米島では日本軍に徴用されていた船が撃沈され、住民たちが必死の捜索に当たっていました。 軍需物資などを運ぶ徴用船として那覇と久米島を結んでいた嘉進丸は2月6日、久米島の真泊港を学生を…
65年前の今日、そしてこの時期は、新聞に2日と空けずに食糧確保を呼び掛ける記事が載せられます。 1945年2月5日の沖縄新報は「勝敗のカギは増産」「イモ類を大増産」の見出しで食糧生産を呼び掛けています…
65年前、食糧不足が子ども達を苦しめました。 65年前のきょう新聞には当時の知事・島田叡の三大目標が大きく掲載されました。そのひとつが「食糧自給の達成」。食べ盛りの子ども達を苦しめたのがこの食糧不足で…