アメリカ軍が首里の司令部に迫る65年前のきょう、那覇市繁多川の防空壕を追い出され、なくなく南部へ移動する住民がいました。 アメリカ軍が上陸する前から、那覇市繁多川にある石田の壕に避難していた松茂良美智…
「オキナワ1945〜島は戦場だった」拡大版です。65年前のきょう、沖縄戦最大の激戦と言われた戦闘が始まります。わずか7日間の間で約5000人以上が死んだとも言われる戦いは那覇で繰り広げられました。地獄…
65年前の今頃、山に避難していた名護市辺野古の住民らはほぼ全員山を下りて、早くも学校も復活していました。 初枝さん「私たちは食べ物もいっぱいあったし別に、苦しいというあれはなかったけど」 沖縄本島でも…
65年前の今日、アメリカ軍が撮影したフィルムには戦場で傷つき、肉親を失った孤児たちの姿が映し出されていました。 5月10日の日付のあるこのフィルムには戦場に置き去りにされ、アメリカ軍が救いだした男の子…
1945年5月。アメリカ軍の上陸からおよそ一か月、このときすでに本島中北部各地にはアメリカ軍による戦争難民収容所が作られていました。 そのうち、石川地区の収容所ではきょう5月7日、子どもたちを集めて初…
沖縄に向けて飛び立つ特攻隊の基地では、65年前のきょうも空には鯉のぼりが泳いでいました。 高々と上げられた鯉のぼりを笑顔で見上げる特攻隊員ら。65年前のきょうの新聞です。しかし、戦況は激しさを増してい…
65年前のきょう、第32軍は総攻撃を開始。しかし、その作戦は1日で失敗に終わります。 5月4日、アメリカ軍の様子を記録した映像には、煙幕をたき大勢が走りぬけるアメリカ軍の姿があります。 この日の早朝、…
5月3日、石垣島では県八重山支庁が空爆をうけ八重山における県の行政は完全に停止しました。 年明けからアメリカ軍の空爆と艦砲射撃にさらされていた石垣島。爆撃は4月からよりいっそう激しさを増していました。…
1938年に開園し、国が隔離政策でハンセン病患者を収容した沖縄愛楽園には、1944年の日本軍の一斉収容で沖縄全域から900人あまりの患者が集められました。 そして、当時の早田園長の指揮のもと、体の不自…
65年前のきょうアメリカ軍の前線は浦添に入り牧港飛行場を占領しました。 牧港飛行場は1944年に日本陸軍が「沖縄南飛行場」として建設。1830メートルの滑走路を持つ一人乗りの小型特攻機用の飛行場でした…
65年前のきょう、識名園の近くにあった県庁壕では最後の市町村会議が開かれました。 アメリカ軍の攻撃が激しさを増し、日本軍は4月24日、那覇・首里地区の住民全員に対して南部地区への避難命令を出しました。…
先週土曜日、宜野湾市で国内最大級のファッションイベントといわれる東京ガールズコレクションが開催されました。一体、どのようなイベントだったのでしょうか、また、イベント今後の県経済に与える影響などについて…
65年前のきょうアメリカ軍は浦添まで迫りました。そこに配置されていたのが首里高等女学校、ずいせん学徒隊の生徒たちです。 4月24日宜野湾嘉数の最前線を突破したアメリカ軍は二日後の26日、浦添での激戦を…
宜野湾市の小学生「いつも寝る前とかにヘリの音がうるさくて怖いんですよ。だから基地はいりません」 記者「県民大会の開催まで、まだ2時間近くありますが会場にはご覧のように続々と人が詰め掛け、すでに熱気を帯…
4月19日のアメリカ軍総攻撃以降、首里防衛線の最前線では、連日一進一退の激闘が繰り広げられていました。 沖縄守備軍は、圧倒的に兵力・兵器の勝るアメリカ軍を相手に、嘉数、西原、棚原などを必死に守っていま…