海上を戦場としていた第22震洋隊は8月下旬、屋嘉収容所周辺で終戦を迎えることとなります。 8月下旬、終戦を知ったひとつの部隊が武装解除し、捕虜となります。第22震洋隊です 太平洋戦争末期、日本海軍が起…
八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。 空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7…
検証・動かぬ基地です。前原沖縄担当大臣が先週、名護市の島袋前市長と秘密裏に会談していたことが分かりました。現職の大臣が基地建設を容認する前の市長と密談、疑いの声も上がっています。 先週、前原沖縄担当大…
「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。 慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属し…
終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します 1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。 日本の無条件降伏が決定した8…
顔を抑える女性・・・首をロープに巻かれ倒れている人その人に必死にしがみつく子ども。これは65年前のきょう久米島で起きたむごたらしい事件です。 久米島住民虐殺を調査している上江洲盛元さん「首に紐をくくっ…
65年前のきょう、敗戦後の占領方法などを話し合う日本の「降伏使節団」を乗せた飛行機が伊江島飛行場に着陸しました。 国民が敗戦を知った15日から4日後。日本が降伏したあとの占領方法などについて、連合国側…
65年前のきょう,久米島では、また日本軍による住民の虐殺がありました。日本軍は、自分たちを守ってくれると思っていました? 喜友村さん「それは、片方ではあるしね,アメリカもほんとに何もしないのか それも…
開催中の美ら島総体は爽やかな感動だけではなく、非常に大きな経済効果を沖縄にもたらしました。美ら島総体・番外編、岸本記者の取材です。 先月28日に開幕し、選手だけで3万人、その家族や関係者も含めると10…
沖縄近海で多くの若い命が散った特攻作戦は日本の敗戦後、最後の犠牲者を出して終わりました。 海軍中将、宇垣纏。太平洋戦争開戦時は連合艦隊の参謀長で、沖縄戦では4月から展開された特攻作戦、菊水作戦を指揮し…
65年前のきのう、日本国民は玉音放送で敗戦を知ります。しかし、沖縄では殆どの住民が終戦を知りませんでした。 玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」 65年前のきのう、ラジオを通じて、多く…
夏、沖縄の各村で見られる旗頭。高さおよそ8メートル、重さ50キロ。黒装束をまとった、はたもちが代わる代わる勇壮に揺らします。 村の綱引きの応援旗が起源といわれる旗頭。神が宿っているとされ、古くから村の…
65年前のきょうもアメリカ軍の掃討作戦が続けられた沖縄。当時のアメリカ軍の情報機関、G2による戦時記録にはこう記されています。 「8月13日、本島。日本兵28人を殺し、日本兵3人、朝鮮人軍夫2人を捕ら…
名護市が誕生してから40周年の記念式典。歴代の市長や議員たちが集まり、祝賀ムードに包まれた会場でしたが、その裏側では来月の市議会議員選挙を前に、早くも稲嶺市政与党と野党が激しい火花を散らしていました。…
沖縄本島では組織的な戦闘が終わって2ヶ月近く過ぎたこの頃、八重山諸島ではまだ戦闘に備えている学徒隊がいました。 八重山では1945年3月に県立八重山農学校、八重山中学校、八重山高等女学校の生徒達が学徒…