政府は、日本の安全保障や防衛力の基本方針を示す「防衛大綱」をあす17日に閣議決定します。しかし、そこで検討されている計画は、沖縄県民に新たな負担を強いるもののようです。 民主党政権になって初めて見直さ…
今年に入ってから、県内でダイビング中の死亡事故が急増しています。そんな中、県は初めて本格的な県内のダイビング業者の実態調査を行いました。そこからは、深刻な業界の現状が見えてきました。 「ガイドが全く後…
65年前の12月、石川と越来の間で、沖縄本島では戦後初の電話回線が開通します。 戦争によって、明治から築き上げた電信電話の全ての施設が焼失。沖縄の電話事業は「無」の状態からの再建となりました。 石川の…
長野県の小さな村の中学3年生たちが、沖縄に関する新聞づくりに取り組んでいることを10月にお伝えしましたが、その新聞が今月8日に発行されました。基地のない長野で中学生たちがどのような思いで、新聞を制作し…
戦火を生き延びた人々は必死に生活を取り戻そうとします。しかし「戦果取り」と呼ばれた行動で多くの人が犠牲となりました。 旧居住地への復帰が認められ故郷に戻った人々は衣食住を確保することに奔走する毎日でし…
沖縄諮詢会がアメリカ軍政府に設置を求めていた警察学校が65年前のきょう、旧具志川村に開校しました。 沖縄諮旬会が正式に警察学校の設置を求めた1945年11月からおよそ一カ月後。アメリカ軍政府は旧具志川…
政権交代から1年あまり。沖縄では多くの県民が普天間問題の解決を期待しましたが、それも間もなく、落胆へと変わり、今や、解決の糸口も見つかっていません。こうした中、県民と党本部の板挟みになった民主党沖縄県…
65年前の12月、被爆者として沖縄に帰ってきた壺屋焼の陶工がいました。 島袋常明さん「稲光がして、いい天気でも稲光があるねぇと言って天を見たら、雲が寄ってくるわけですよ。寄ってきたらパーンという音も聞…
「オキナワ1945〜島は戦場だった」拡大版です。1941年のきょう、太平洋戦争が勃発し、1945年にアメリカ軍は沖縄に上陸。島は戦場となりました。戦火を生き延びた人たちが65年まえ、復興にむけて毎日を…
65年前のきょう疎開先の台湾にいた八重山の人々を引き揚げさせるため、石垣町長は、台湾へと向かいました。 八重山から台湾に疎開した人はおよそ2500人。敗戦を知った人々は島に引き揚げるため、基隆や蘇襖南…
65年前の12月、いち早く復興が始まった那覇市の壺屋で、戦後初めての陶器が焼かれました。 1945年12月、戦後初めての窯で焼かれたお椀です。11月に先遣隊103人が戻って来た那覇市壺屋。およそ1カ月…
戦争当時15歳だった玉那覇清一さんの証言です 玉那覇さん「中学に入ってから勉強らしい勉強はほとんどない。ぼくの同期生は一中健児の塔、向こうにたくさんいます」 県立一中の生徒だった玉那覇清一さんは、通信…
アメリカ軍政府と沖縄諮詢会が教育の再建に取り組む中、当時、学校での授業は英語で行おうという動きがありました。 収容所内の治安のため、子どもたちを集めることから始まった戦後の教育ですが、青空教室からコン…
戦後65年の今年、ステQでは1945年の日々の出来事を毎日追いかけてきましたが、最後のひと月は、毎週、枠大企画をお送りします。今日は知られざる日本軍の住民虐殺について。沖縄戦では、国民を守るはずの日本…
沖縄戦では多くの酒造所も壊滅し終戦後、泡盛作りもゼロからのスタートを始めました 具志堅盛輝さん「昭和20年、こっちに来た時は酒は何もなかったよ」 名護市の市街地にある昔ながらの佇まいを残す津嘉山酒造所…