一冊の著書が6月12日に発行されました。タイトルは「沖縄鉄血勤皇隊」。著者は元県知事・大田昌秀さんの絶筆です。先月12日に亡くなった大田昌秀さん。その日は自身の誕生日でもありました。
沖縄師範学校時代、鉄血勤皇隊として戦場に駆り出され、九死に一生を得た大田さん。その経験から生涯貫いたのは「平和を創造する」ことでした。
「同じ戦場から生き延びた者として、生きる意味があるとすれば、絶対に二度と同じ悲劇を繰り返させてはならない、世界の平和創出に努めることだと決意した」
戦後、研究者として琉球大学教授を務めた後、大田さんは1990年、県知事選に挑み初当選を果たします。戦場を体験した大田さんらしく、バンザイはありませんでした。
大田昌秀さん「鉢巻もタスキもやめましたので、最終的な勝利の瞬間も大げさにバンザイしなくていいんじゃないかという」
社会学者から知事になった大田さんを待ち受けたのは、沖縄に重くのしかかる基地問題でした。95年、日米両政府を揺るがす事件が起きました。女性を被害者とする海兵隊員による事件。保守革新を問わず県民の怒りは沸騰点に達しました。
大田昌秀さん「行政の責任者として一番大事な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることが出来なかったことについて、心の底からお詫び申し上げたいと思います」
8万5000人が集まった県民大会。あわてた日米両政府は96年、普天間基地を全面返還することで合意。
橋本龍太郎総理(当時)「普天間飛行場は今後5年ないし7年以内に、これから申し上げる措置が取られたのちに全面返還されることになります」
しかし、ふたを開けてみれば県内移設。沖縄と日本政府とのかみ合わない歯車。
その前の年、軍用地の継続使用に反対する地主を飛び越え、知事が代理で使用を認める制度に関し、大田さんは軍用地主の代理で署名することを拒否。日本政府に裁判を起こされても拒み続けました。
96年には基地を段階的に返還させる「基地返還アクションプログラム」、また沖縄とアジアを結ぶ「国際都市形成構想」を打ち出しました。
稲嶺惠一元知事「理想もっていて本当に平和に対する思いというのは強かったと思いますけれども、しかしある意味では現実の経済というのも見つめながら、両方どう解決していくかということに心を注がれ続けておられた」
大田さんは沖縄戦に関するアメリカの公文書を収集する「県公文書館」を建設。そして戦前、戦中、戦後の沖縄を伝える平和学習の場として「県平和祈念資料館」を立て替えました。
最も力を注いだのが「平和の礎」でした。
戦争に動員された人ばかりでなく、国籍を問わずに名前を刻銘したことでした。この人には名前がありません。ですが大田さんは、沖縄戦で亡くなったすべての人が生きていたことを忘れるべきではないと「誰々の子」と刻んだのです。
政治家を退いた大田さんは沖縄国際平和研究所を設立します。膨大な資料や本にはびっしりと付箋紙が貼られています。
桑高英彦さん「必要なところにはずっと付箋をつけて。付箋のないページがないくらい。本当に細部まで目を通されているという。ずっと目を通されていましたね」
大田さんの書斎。4月23日に入院するまで、この机で執筆していたと言います。机の上に置かれたメモ帳。
「生き地獄の沖縄戦への道のり川の流れのように命ど宝を生きてきた」
この30文字に込めた思い。青春を戦場で奪われ、疲弊した心を研究者になることによって奮い立たせ、沖縄戦の実相を掘り下げ、伝えるために行動し続けた大田さん。
人は生きて大事にされなければならない、それは平和があってこそだ。その思いを体現し貫いた生涯でした。