今からおよそ50年前、うるま市の 宮森小学校で発生したジェット機墜落事故を風化させまいと当時の児童や教師らが資料館の設置を目指しています。遺族たちから寄せられた子どもたちの写真や遺品の数々は私たちに何を語りかけているのでしょうか?
大好きなお母さんのそばで微笑む男の子、色鮮やかな絵。これは50年前に発生した宮森小学校ジェット機墜落事故で亡くなった子どもたちゆかりの品々です。公開したのは、資料館の設立を目指している宮森「630館」設置委員会。写真やノート、愛用していた日用品などおよそ300点が紹介されました。
平良会長「年月が経つにつれ、事故のことは風化しつつあり、関係者の方からはそのことを危惧する声があります。命と平和の尊さを発信するための平和学習資料室、命と平和の語り部宮森630館の設置に取り組んでいます。」
宮森小学校ジェット機墜落事故。1959年6月30日。嘉手納基地から飛び立ったアメリカ軍のジェット戦闘機がエンジントラブルを起こし、パイロットは脱出。無人となった機体は火を吹きながら墜落。民家をなぎ倒し宮森小学校で炎上しました。この事故で17人が死亡、200人余りが大ケガをしました。
事故で亡くなった児童たちを供養しようと校庭に設けられた仲よし地蔵。手を合わせるのは卒業生の名嘉百合子さんです。名嘉さんも630館設置委員会のメンバーの一人です。
名嘉百合子さん「私もやけどを負って、外に運ばれて、一緒に治療を受けたんですけど、生き残った私がこの子たちを供養しなければならないという思いが強いですね。」
色とりどりのクレヨンで描かれた絵。描いた女の子の楽しい気持ちが伝わってきます。作者は名嘉さんの同級生の喜屋武玲子さん。当時2年生だった玲子さんは事故でやけどを負い、亡くなりました。
名嘉百合子さん「とっても優しい子でしたよ。可愛くて、お嬢さんで、真綿に包むようにして、ご両親は育てたと思います。
資料の公開に合わせて久しぶりに学校に足を運んだ遺族もいました。喜納福常さん、秀子さん夫妻。今回は事故で亡くなった二男・常次さんの写真など55点を寄せました。喜納さん夫妻にとって50年、時は止まったままです。
喜納福常さん「50年にもなるんですけどね、やっぱりこの姿しか考えられないですよね。米軍の顔見た場合には怒りを感じるような。」
この日は、当時の教師たちも久しぶりに学校に集まりました。
新里さん「ケガをして出てくる子どもたちが印象に残っています。」
豊浜さん「母親だとか、父親、ご兄弟の方々は顔を上げられないくらいの様子、悲しみというか、引き取っていく状態はこれは並の精神状態じゃないんですか。」
比嘉さん「人生の半分以上過ぎても悲しみはあのままですよ。
この事故は太平洋地域に駐留しているアメリカ軍最大の事故といわれています。しかし、これまで実相はあまり語られてきませんでした。なぜなら、事故が起きたのは日本に復帰する前でアメリカの施政権下。多くの情報が開示されなかったのです。また事故の悲惨さゆえに遺族や被害者の多くが口を閉ざしてしまったことも理由にあげられます。
名嘉百合子さん「知らないことが多かった。今まで表に出てこない、皆さんも口にすることも拒んできたんだと思うんですけど。今からやってくる若い子たちにもわかってもらって」
平良会長「物から、遺品などから、本人の息遣いといいますか、温かさ、ぬくもり、亡くなった方のを感じます。遺族の方々、関係者の願いに応えられるようなものにしていきたいと思っております。」
630館は来月30日にオープンの予定。設置委員会では資料の提供と寄付金の協力を呼びかけています。
事故が発生したのは復帰前の沖縄です。ですが、そのときと広大なアメリカ軍基地の存在というのは全く変わっていません。いつ何時、同じような事故が起きるかはわからないということなんです。半世紀前の事故ではありますが、今、私たちが暮らしている沖縄についても考えてみるきっかけになりそうです。以上Qリポートでした。