75年前。山口県にある海底炭鉱で水没事故が起きました。この事故で犠牲になった県出身犠牲者の遺族が去年初めて判明しました。事故から75年がたち初めて明かされる真実とは−。
山口県内でも有数の工業地帯・宇部市。この街はかつて石炭産業で発展しました。
海岸線に立つ2本の古びたコンクリート製の筒。「ピーヤ」と呼ばれるこの筒は、海底に掘られた長生炭鉱の排気口の跡です。75年前、水没事故が起き183人が犠牲になりました。
内岡貞雄さん「これがあの183人の犠牲者の名盤」
内岡貞雄さん。長生炭鉱の悲劇を後世に伝える活動をしています。
1942年2月3日、午前9時ごろ、海底からおよそ30メートル下に掘られた坑道が水没。地下で作業していた183人が犠牲になりました。このうち137人が朝鮮半島出身者でした。
海岸に伸びた桟橋。事故が起こる前の長生炭鉱です。右下に写る女性は朝鮮半島の民族衣装チマチョゴリを着ています。
慰霊碑には事故で犠牲になった183人の名が刻まれています。実はこの中に、沖縄出身者5人が含まれています。
内岡さん「日本人の犠牲者の中で山口県出身者は12,3人なんです。ところが沖縄の出身者は5人。どうして沖縄の方々がここに来て、5人も犠牲になられたのかという、そういうことが大きな(疑問で)」
なぜこの地に沖縄の人がいたのか、内岡さんは沖縄で遺族を捜し始めます。
現在の名護市羽地。ここから長生炭鉱に働きに出ていた男性がいました。
大城惣徳さん「(Q:お父さんのお名前ですよね?)そうですね。お父さんの名前…」
大城惣徳さん(78)。4歳の時、事故で父親の惣助さんを亡くしました。当時の北部地域は貧しい家庭も多く、県外へと出稼ぎに行く人たちも多くいました。一家の大黒柱を失った惣徳さん一家は沖縄へと戻ってきましたが、その後の生活は苦労の連続でした。
大城さん「学校はもう13の時から行っていない。生活どころじゃないよ。困っている人だけだったから。(Q:周りの同年代とかは学校へ?)それはもう大変ですよ。会いたくないぐらいでした」
陸から1キロ以上先の海底まで伸びる炭鉱。海底から30メートル下の深さで作業をしていた男たちは常に危険と隣り合わせでした。戦争が始まり石炭需要が高まる中更に過酷になる作業。辛い作業にあたるのは朝鮮半島から連れてこられた人達や、沖縄など地方からの労働者だったといいます。
事故が起きた後、炭鉱の運営会社は解散。男たちの遺骨は拾われることなく、今でも冷たい海の中に眠っています。
先週土曜日に開かれた慰霊集会。朝鮮半島からも遺族が集まり、朝鮮式の法要で犠牲者の供養が行われました。そこには沖縄の遺族を捜している内岡さんの姿もありました。
内岡さんは会見後、惣徳さんと初めて対面していました。遺族と対面を果たした後、あることを決意したと話します。
内岡さん「亡くなられて74年もたった後にしか(慰霊祭を行っていると)お知らせできないことに、非常に忸怩たる思いだった。海の底にある御遺骨をなんとかお返しをしたいと強く感じて。もう一回心を新たにして取り組みたいと思いました」
日本の経済を支えた炭鉱で働き、命を落とした人達。遺族たちは静かに海から聞こえる声を聞きつづけています。