頭に刻まれた深い傷、おびただしいやけどの痕。これは57年前の石川宮森ジェット機事故に関する医療報告書。およそ300ページにのぼる報告書からはこれまであまり語られなかった事故の悲惨な実態が見えてきました。
報告書は1960年と61年に米軍が作ったもので、負傷者一人ひとりの容体や写真が記録されていました。
祖慶良孝さん「(Q.初めてご覧になりましたか?)初めてです。昔の写真と似ていますから、自分ですよ。」
写真の一人、祖慶良孝さんに会うことができました。祖慶さんは事故で、右の頬から耳、首にかけて大やけどをしました。左足も複雑骨折し、何度も辛い手術をしたといます。
祖慶良孝さん「夜中はよく足が痛くて、時々泣いたり、親にもんでもらったり、退院した後ですね、足も曲がらない状態でしたから。」
散々ケガに泣かされた祖慶さんですが、とても不思議なことがあります。実は、祖慶さんは事故当日を含め、小学校で勉強したり、遊んだりした記憶がほとんど失われてしまっているのです。
祖慶良孝さん「小学校の記憶はあまりないですね。自分なんかの時はそうじゃないですかね。思い出したくないからみんな記憶から消し去っているんじゃないですかね。」
写真には痛々しい小さな子どもの手も写っていました。私たちはこの手の主を捜しました。そしてようやく見つけたのがこの男性。玉城智さんは小学校の敷地内にあった幼稚園に通っていました。
玉城智さん「私と2,3人、ちょっと年上の先輩とブランコに乗っていて、いきなりジェット機の墜落で飛ばされたと。意識が戻った時には、この自分の腕の方が余りにも焼けただれていて、その痛さから、砂をこすりつけた記憶がありますね。」
その後新たにこちらの写真も見つかりました。
玉城さんのやけどは顔や手など、体の25パーセントに及びました。
中でも右手のやけどは深刻でした。
玉城智さん「ここにちょこんとだけ残っていて、もう黒焦げになっていて、病院のベッドでポキッと折れて、その後の写真だと思うんですけどね。世間の人からずっと見られている状態。実際にはまあ、見せていいかわからんけど、両腿、この部分ね、それと、おなかの一部、ケロイドがあって、その部分を隠していたと、小さな頃は見られないように。聞かれた時はこたえればいいさという気持ちでやっているけど、心の片隅では、じろじろ見ていると言うのが辛いですね。」
玉城さんは、傷痕を見られたくないという思いで、これまで取材を一切拒否してきました。しかし今回ある思いから応じてくれました。見せてくれたのは事故の翌年、治療のため上京した際の写真です。そのときに治療費を支援してくれた人たちにお礼を言いたい。玉城さんはそう考えたのだと言います。
玉城智さん「亡くなった方の家族のことを考えると、本音は出たくないという気持ちがいっぱいだと思うんで、多分、取材を拒否している方もそう思っているかもしれない。でも当時の、支援を受けた当時の、お礼を言える場となって、感謝しますよ。」
今回見つかった医療報告書。それは私たちが想像して以上に壮絶な真実。そして60年経っても苦しみ続けている人々の存在を知らせていました。