こちらは先月伊江村に建てられた。沖縄戦の慰霊碑です。71年前の4月23日。伊江村で起きた集団自決。その真実を多くの人に知ってほしい。慰霊碑の建立は、ある女性がずっと願っていたものでした。
古井戸の前で手を合わせるのは並里千枝子さん(80歳)。71年前この場所であった出来事を後世に伝え残して欲しいと願い続けてきました。
並里千枝子さん「記録に何もなかったんです、今まで村の。どうにかしないといけないと思って、ずっと私一人悩んだりしてきたんですけど」
この井戸の下には日本軍によって掘られた地下15メートル、長さ50メートルの陣地壕があり、沖縄戦当時、住民たちも軍とともに身を寄せていました。その壕は住民から「ユナパチク壕」と呼ばれていました。
1945年4月。伊江島に上陸したアメリカ軍の猛攻を受け、逃げ場を失い追い詰められた住民およそ80人は、このユナパチク壕で日本軍から渡された手りゅう弾を爆発させ、命を絶ちました。
多くの命が失われたこの出来事は、並里さんが語り始めるまで、ほとんど知られていませんでした。あまりにも壮絶な体験だったため並里さんは、心にずっと秘めてきたのです。
並里さん「何かのはずみにパッと戦争の頃の記憶がぱっとくるんですよ。とても複雑ですよ。大変ですよ。言葉では言えませんよ。話したくない絶対に話したくない」
戦争のことを思い出すだけで下痢や嘔吐を繰り返す並里さん。50代後半から沖縄戦のトラウマに悩まされ苦しんできました。
3年前、並里さんは高校生たちが主催した講演会に招かれ、自身の体験を話す機会がありました。当時9歳だった並里さんには、生後6か月の弟・清隆ちゃんがいました。壕の中で泣き止まなかった清隆ちゃんを日本兵は殺すよう命じたのです。
子どもが泣き止まないとアメリカ軍に見つかりみんな殺されてしまう、追い詰められた並里さんの母親は、弟の顔を出ないお乳に強く押し付けたのです。清隆ちゃんは間もなく、動かなくなりました。
並里さんはその時、抵抗した清隆ちゃんに太ももを蹴られた感覚が今も頭から離れず、これまで打ち明けることが出来なかったと話しました。
並里さん「お母さんは抱いたまま動かない、ずっと動かない。私たちは、お母さんに言葉をかけることもできなくて」
そして、並里さんはトラウマと葛藤しながらも3年がかりで一冊の本を書き上げました。
【即死できず苦しむ者もいて、地獄でもがくような、恐ろしい泣き声が耳に刺さった。『助けてくれぇ、助けてくれぇ』深い深い地底の闇の中、地獄絵図という言葉では通用しない惨状であった】
「後世に伝えたい」その思いで命がけで書いた本。これが行政を動かすこととなります。
伊江村・島袋秀幸村長「私たちは、この事を深く心に刻み決して忘れてはならないと思います」
あの日から71年。ユナパチク壕があった場所には、並里さんの願いだった記念碑が建立されました。
並里さん「お父さん、お母さん、おばあちゃん、きょうは報告に来ました。ユナパチク壕に記念碑がたちました。お母さんもこれで安心してください。清隆ちゃんにも会えたことでしょうから、父にも伝えてください」
清隆ちゃんのこと、80人もの尊い命が集団自決によって奪われたこと。戦後、母とも一度も話すことがなかったこのユナパチク壕での悲しい出来事。並里さんの体験は慰霊碑としてこの場所で語り続けます。
並里さんの取材をして4年目になるんですが、当時の並里さんは、語りながらも途中、苦しんでしゃべることが出来なくなることもありました。特に本の作成中は、戦との対面で苦しみもがきながらも、生涯かけて仕上げると強い思いで向き合っていたんですよね。
伊江村もその思いにこたえて4か月で慰霊碑建立を実現したというのは並里さんを勇気づける一つのきっかけにもなったような気がします。戦後71年。戦争の実相を伝えるためにも行政そして、私たちの知恵と工夫が求められています。