返還合意から20年。当時の日米の交渉のキーパーソンの一人、吉元元副知事がQABの単独インタビューに応じてくれました。返還合意に至る経緯など舞台裏を知る人物だからこその話を聞かせてもらいまいた。
吉元元副知事「戦後70年。戦争を知らない世代に入ったということですよ。これはものすごく大きいですよ」
こう話すのは、当時、副知事だった吉元政矩さん。「辺野古が唯一の解決策」と繰り返し、沖縄を一顧だにしない今の政府の姿勢を、批判します。
吉元元副知事「この人々(今の政府)に、戦後沖縄の教訓、苦しさをぶつけても意味ない。純粋に今日的な日米関係しかもの言わないし、東アジア、中国との関係でしか頭作りしないし、という世代に入ったということですよ」
20年前の合意当日、吉元さんは、県庁にいました。
吉元元副知事「知事に総理から電話がボーンとくる。知事ビックリする。どうしたらいいか。基本的には問題があった。普天間返還は、沖縄から出すじゃなくて、沖縄のどっかに移すというのがくっついていた。それで、知事もイエスと言えない」
当時の大田知事に、突然突き付けられた「県内移設」。しかしその後、知事は県内移設を認め沖縄はすり替わった「普天間移設」という大きな波に飲みこまれていきます。
しかし、日米両政府がこの合意に至る背景には、当時の大田県政が打ち出したある計画がありました。
吉元元副知事「95年に大田知事、私が副知事の時に、基地返還アクションプログラムを出した。20年間で、基地をゼロにする。米軍基地をゼロにするということ。20年と言うと、2015年ですから、去年の暮れ。順調に言っていれば、沖縄の米軍基地はなくなっていたはずなんです」
「基地返還アクションプログラム」。それは、当時の大田県政が沖縄の「未来」を思い描いた「国際都市形成構想」というグランドデザインとともに出されたものでした。
アクションプログラムでは、返還への道筋を3段階に分け、第1期は、後に、日米両政府が返還合意する施設、第2期は主に海兵隊基地、第3期は、嘉手納飛行場を含む残りの全てを順次変換するというものでした。
当時の市町村や、経済界からの同調も取り付けた壮大な計画。
しかし、沖縄の願いとは裏腹に「県内移設」にすり替わった計画は、今も暗礁に乗り上げています。返還合意から20年。これまで返還された施設は、面積で、わずか3.4%程度に留まっています。吉元さんは今、日本政府ではなく、アメリカ政府と直接、交渉すべきと考えています。
吉元元副知事「日本政府がどうのこうのと言う、そんな時代じゃなくなった。あとは、アメリカと直接的に決着を付けないといけない。こういう時期に入っている。アメリカが海兵隊を日本に置いておくというなら、沖縄から出てくれと言うだけでしょ。沖縄からは海兵隊を全部出せという風なものに結び付けないと、部分的な話になっている。ここが今、オタオタする理由」
20年が経ち、吉元さんは、現在の不条理さを抱きながらも、新しい波を感じています。
吉元元副知事「今は、もっと若い層が、基地問題などを表に出すようになった。この変化は、もの凄く大きい。きちっと日米政府に真正面から、物を言っていく。そして行動を起こす。行動を起こさないとダメ。言葉だけではなだめ」
20年前、県が求めた基地の全面返還へのアクションプログラム。そのきっかけは、米兵による非道な暴行事件への怒りでした。
あれから20年、基地は動かぬまま、事件事故は後を断ちません。