名護市では先週末で三つの小学校が閉校になりました。天仁屋、嘉陽、三原が一度久志小学校に統合されてまた3年後に久志中学校の隣に新しい校舎を建てて、新たな小中一貫完教育校に生まれ変わる予定です。複式学級を解消するということなんですが一気に進められた統合に、学校を失い地域では戸惑いを隠せません。
「世は騒乱の波立てど 子弟一体いそしみて 真理と平和一筋に」
二度と戦争に関わることなく、教師と生徒が一体となって本当の平和を求めよう。校歌でその決意を歌っているのは、創立66年の天仁屋小学校。戦後、天仁屋の人々は真っ先に焼けた校舎を立て直しカンズメの箱を机に、教育を再開しました。多いときで120人を超えた児童数も現在は7人、ついにこの春で廃校になります。この日は、消えていく校歌を録音しました。
Q. 歌詞がちょっと難しいね? 比嘉優海さん(一年女子)「最初は難しかったけどだんだん慣れてきて歌えるようになりました。」Q.あと何回歌えるのかな?仲本さとみさん(4年生女子)「わかんないけど、ずっと歌っていたい」
こちらは創立99年の伝統を誇る嘉陽小学校。校庭と砂浜が連続しているという立地を生かし、18年間、ウミガメの生態観察を続けて来ました。
男の子「カメの怪獣がいてガメラって言って、かっこいいからその名前を付けました」
今日は最後の海ガメの放流会。体重を記録し、カメに標識を付けます。「頑張れ、がんばれ!」自然豊かな少人数校ならではの教育を進めてきた 嘉陽小学校。一時3人まで減った生徒も11人になり、廃校はまだ先と思われました。しかし、名護市は複式学級を解消し、小中一貫教育校を作るとして、去年2月、一度に4校の統合を発表したのです。
嘉陽の男性「話を持ってきたときにはもう統合しますっていうことを持ってきて「統合したいとか、地域にそういう相談もなかったですよね。」
平地克己校長先生「私出身は石垣、八重山なんですけれども、そこではもっと少ない学校がたくさんあります。そういう意味からすれば、まだ(学校の維持は)可能ではあったんではないかと思いはします。」
さらに児童数が多い久志小学校や三原小学校では、多くの住民が「なぜ統合を急ぐのか」疑問を持っています。
久志小PTA 渡具知地武清さん「直接保護者に話があったのは、去年ですね 2月ごろからそしてこういった説明会が。これが資料なんですけどね、これ見たらびっくりしちゃってね「この予算は25年までしかおりないという予算で作る考えなんですよ。」
新しい基地の受け入れ度合いによって支払われる「再編交付金」。今までの基地関連収入と違う性格を持っています。名護市は去年12月、再編交付金の基金条例を制定。その結果、いわゆる箱モノを作る意外に、2年以上継続する事業にも基金をプールしてあてられるようになりました。つまり、ドクターヘリや学校の建設・統合などの継続事業にも、基地のお金を出せるようにしたのです。
Q 再編交付金の話もなければ統合の話は進まなかった?久志小PTA 渡具知地武清さん「なかったんですねえきっと。だからもう、ほんと、急にという話だからねえ、これがなければ久志小学校なんて見向きもしなかったはずですよ。」
かつて名護市の基地関係収入は、軍用地代が主で平成6年でおよそ15億円。それが移設先が辺野古と決まってからは北部振興策などで急激に増え平成13年で92億円と(6倍)になり、名護市の歳入に占める割合も多い時で3割と、もはや基地のお金ぬきで予算を考えられない現状です。小規模校は合理化したい。でも、新しい校舎を建てるなら、交付金も下り、公共事業になる。そんな財政の都合で、教育が左右されていいのかと親たちは戸惑います。
久志小PTA 東恩納琢磨さん「現実的に予算はないから。この予算があるから、という話でこの教育のことを片付けられるっていうのは。旧久志村の時代はもっと貧しかったはずです。貧しかったけど、 集落に、4つの小中学校があった」「その当時の大人たちはですね、 教育はまず何よりも最優先して考えたからこんな地域の田舎に4つの小中学校ができたと思うんですよ。」
政府が基地の移設を決めて12年。665億円が名護市に投下され久辺3区に215億円、二見以北にも16億円投入されましたが、それだけの振興策があっても、地域の小学校は守れませんでした。
嘉陽小学校閉校式 子供達「ありがとう、嘉陽小学校」
閉校式には地域の人ほぼ全員が参加。100周年を目前に消えていく母校との別れを惜しんでいました。
宮城区長「あの城とこの海に囲まれた、こんなにいい環境の学校を何でつぶさなきゃいけないのかと閉校も嫌だけど、統合するならこっちに統合してくれと」
具志堅教育次長「小中一貫教育は自分たちもまだ地域の人たちには説明不足の面があろうかと思います。できうれば、市街地からも名護の町のなかからもですね、子供たちが呼び込めるようなそういう充実した学校を作ろうじゃないかと。」
「ありがとう、三原小学校、 さようなら、三原小学校」
戦後、三原の人たちは 自分たちで土地を差出し、校舎も作ることを条件に 旧久志村に陳情し、女性たちも石を運んで学校を作った歴史があり学校に寄せる思いはひとしおです。
瀬名波栄仁 三原区長「しかし、名護市教育委員会の方針には、賛成しかねる所があります。」
おばあ「学校の敷地を埋めるのから萱借りて学校を建てたり、こういうことをやってきたので、市のいうこと、なんであんたがたはこれに賛成したの?」
天仁屋小学校では この日を最後にもう歌われることのない校歌を石に刻んで、学校の歴史を閉じました。その、校歌に込められた平和への思いを、もう歌い継ぐ人がいない。学校が無くなるというのは 地域の人たちの思いを受け継いできた場もなくなるということなんですね・・・
来月からは、遠い子供でおよそ20キロの道のりをスクールバスで通うそうですが、新たな小中一貫教育校と言うのが、本当に子供たちのために考えを尽くした学校になっていくのどうか、それを見守りたいと思います。