こちらは震災の後、沖縄に避難してきた方々の推移です。この5年、里帰りが進んでいますが、いまも700人以上の方々がここで暮らしています。ある家族の生活を取材し、私たちが今、どう支えていくべきかを考えます。
藤巻衛司さん。もともと福島県で船の整備士だった経験をかわれ、沖縄でも県の海洋調査船で働いていました。
藤巻衛司さん「自分の出来そうな仕事っていうのが一番」
ふるさと、福島県相馬市は5年前のきょう、高さ9メートルを越える大津波に襲われ、活気あふれる漁師町は、根こそぎさらわれました。命からがら逃げ延びた藤巻さん一家が決めた避難先は、沖縄。目に見えない放射能の恐怖から、3人の子どもたちの健康と安全を守りたいと、悩んだ末の選択でした。
藤巻衛司さん「子どもたちがのびのびと遊べない。土いじりが出来ない。あの時やっぱり避難しておけばよかったって思うのが嫌だったので」
震災から5年がたつ今、藤巻さん一家は。
大地くん「いっせーの、せ!はいはいはい!」ぴかぴかのランドセル。次男の大地くんは、ことし小学校1年生に。長男の蒼空くんは2年生に進級します。
大矢記者「九九楽しかった?」「だいちゃんももうすぐこういうお勉強するんだよ?うん、わかるー!」
ようやく慣れてきた沖縄での生活。一家の避難生活を支えているものが、県の借上げ住宅制度です。これは、県が民間の住宅を借り上げ、被災者のために無償で提供するというもので、費用は、県が福島県に請求し、最終的に国が負担します。現在、県内では184世帯が利用しています。しかし。
嘉手納課長「現在決まっているのは、来年の3月31日までと。被災県と国との協議によって供与期間が決まってまいりますので」
経済的に苦しい中、突然告げられた制度の打ち切り。来年4月からは新しい制度がはじまりますが、藤巻さん一家の場合、家賃の半額を負担しなければならず、年間で36万円の負担が増えることになります。
さらに、去年、藤巻さん一家に大きな変化がありました。震災のあと、福島で暮らす父が体調を崩し、家族で営んできた船の修理工場を続けることができなくなったため、衛司さんがひとり、福島に戻ったのです。
蒼空くんと絵美子さん「なんだろう、寂しい」「前、近くに住んでいればいいのにねって言っていたよね。」「ねえ、会いたいね。会いたい。」
本当なら、家族みんなで福島で暮らしたい。しかし。
藤巻絵美子さん「福島に(一時的に)帰った時、高速道路乗って、原発周辺のところ 通ったんですけど、真っ暗でしたね。まだ、今も続いているんだな というのは思いましたね。」
原発事故のあと、現場から40キロ以上離れた相馬市でも、高い放射能が測定され、そこに子どもたちを連れて帰ることはできないといいます。
蒼空くん「もしもし?」「はいはいはい?」「うーんと。うーんと。」「はい。お仕事頑張ってね」「はい、ありがとうございます。頑張ってますよ。」
大地くん「パパ、なかなかお仕事忙しくて、沖縄に帰れないけど、うーん、ち ゃんとママの言うこと聞いて、お兄ちゃんと仲良くするんだよ。」「お仕事頑張ってね。あー、ありがとうございますー!頑張ってますからね。はーい。」
藤巻絵美子さん「放射能問題が未だに残っているということで、未だに戻るに戻れない人たちがいっぱいいる。なんか、5年前のことだけど・・・徐々に、薄れていくというか」
帰りたくても帰れず、苦しい思いを抱えて暮らす人たちが今も私たちのすぐ傍にいます。震災から5年。沖縄でどんな支援ができるのか、行政の対応はもちろん、私たち一人一人の行動が問われています。