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那覇市内のジャズバー「寓話」。軽快なジャズを織り成すのはこの店の主で、ジャズピアニストの屋良文雄さん。

常連客「一度来て、非常に心に残るものがあったものですから。それから(沖縄に)来るたびに毎回来る」

ジャズだけでなく、屋良さんの人柄に惹かれて店を訪れる常連客も多くいます。

屋良さん「自分が楽しめば、こういう形で楽しむ人が見えられる。僕の楽しみを皆んなが共有してくれると思うと楽しいです」

常連客「屋良さんはその人生、この時代、時代の沖縄を引っ張っている。沖縄はジャズから始まってきたから」

戦後、アメリカ軍の占領とともに入ってきたジャズ。屋良さんがジャズの世界に入ったのは大学3年生の時。基地内のクラブでピアノ演奏をしたのが始まりでした。

その場の空気を掴み、即興で生み出されていくジャズならではの自由な表現。いつしか屋良さんはジャズの魅力に引き込まれていきます。それは、屋良さんの求めていた言葉を超えた表現の世界でした。

屋良さん「僕はそういう自分の言語的なことを良く知っているから。小学校・中学校から、しゃべらない仕事は何かってことばっかり考えていた」

幼い頃の屋良さんは、言葉の障害に悩む内気な少年だったといいます。そんな彼を変えたのがピアノとの出会いでした。

まだ学校にもピアノが無かった時代。屋良さんは近所に住んでいた、後の行政主席・松岡政保さんの自宅に遊びに行ってはピアノを弾かせてもらっていたといいます。

屋良さん「不思議なのは、ピアノを弾いたら弾けるんですよ。先生について、こうしなさいじゃなくて、自分で結構弾けた」

屋良さん「しゃべるっていうことは言葉を考えるわけでしょ。でもピアノ弾くってことは自然なんだよね。心がそのまま表現されていく…」

音楽の世界で生きていきたいそう漠然と思っていた屋良さんがジャズに出会い、これだと実感。大学を中退して、基地内のクラブでジャズを演奏する毎日を送ります。

しかし、好きな音楽が出来る喜びを感じる一方で、反基地、本土復帰に向かう時代の波は、時に、基地の中で働く者にとって辛いものでもありました。

屋良さん「ベトナム戦争があって、兵隊さん、僕の友達なるんだけれども、やっぱり寂しい想いで行って、結局亡くなった人たちも沢山知っている。そういうものを早くなくしたいと思う。基地がなくなればいいなという想いがある反面、心は音楽をやりたいという、自分の中の葛藤はありました」

そうして向かえた本土復帰。ジャズマンたちは演奏の場を失います。多くの仲間が別の仕事を求めていく中で、屋良さんはどうしてもジャズを捨て切れませんでした。

屋良さん「自分の人生なんです。自分の表現なんです。自分の表現する人生、そのまんまなんです」

演奏出来る場がなければ、自分で作ればいい。

屋良さん「この店を作った時、僕は39歳だったということを思い出すと、青春時代だよ。僕の人生のためにつくったわけですから」

あれから30年、この場所で屋良さんは仲間と語らいながら自分らしいジャズを追い求めてきました。

去年、屋良さんは体調を崩し、8時間にも及ぶ手術の末、3ヶ月の入院生活を余儀なくされました。ピアノから離れた生活は初めてでした。

屋良さん「 懐かしい…。3ヶ月ぶり。(Q:どうですか?お店に帰ってくると?)我が故郷よ、という感じです」

奥さんが見守る中、3ヶ月ぶりの演奏です。

屋良さん「何というかな。自分自身に感動している。あ〜出来たって」

妻・成子さん「この日がどうなるかと。多分無理じゃないかと思ったんですけど、今日聴いて、大丈夫だと思います」

そして、先日?。

完全復活した屋良さんの姿がありました。お店の開店から30周年を記念して仲間が開いたパーティーです。全国各地から600人を超える人がお祝いに駆けつけました。

「沖縄にとってのジャズはアメリカ。屋良はこれを沖縄のものにしてきた。これが僕らに伝わってくる。だから僕らも踊ったと思うよ。踊らされたんだよ」

自分自身を映し出す鏡。それがジャズだと話す屋良さん。その想いは昔も今も変わっていません。

屋良さん「僕の中ではジャズでしか表現できないから、ジャズを借りて自分の表現をする。自分探しなんですね。自分探しのロマンというのは未完成なんです。永遠と…」