うるま市の宮森小学校にアメリカ軍のジェット機が墜落し、児童など200人余りが死傷した事故から今年で50年。その悲劇を風化させまいと演劇公演を企画している若者たちがいます。 舞台を通して何を伝えようとしているのか、取材しました。
子どもたちと一緒にダンスの練習に励むのは今年5月に演劇公演を計画している「ハーフセンチュリー宮森」のメンバーたち。うるま市在住の20代の若者たちを中心に結成されています。
ハーフセンチュリーのメンバー「次の世代に語り継いでON:舞台を通して、宮森のことをとおして、平和を発信していけたら」
彼女たちが演劇で取り組むのはー 「管制塔:燃料が大量に漏れている管制塔:脱出せよ、脱出せよ!」
1959年6月30日。嘉手納基地から飛び立ったアメリカ軍のジェット戦闘機がエンジントラブルを起こしパイロットは脱出。無人飛行を続けたジェット機が小学校に突っ込みました。児童11人を含む17人が死亡し、212人が焼けどなどの大ケガをしました。
今から10年前、QABの取材で明らかになった事故の原因は「整備不良」。人為的なミスが招いた事故でした。
当時の6年生・新田さん「ものすごい音がするんですよ、ふと外を見たら、真っ赤な太陽があるんです。見た瞬間、爆発音です。僕は戦争かと思いました。」
メンバーたちは劇に取り組むのにあたり、当時の教師や児童たちから聞き取り調査を行っています。
当時の教頭・比嘉さん「向こうの校舎にぶちあたって、子どもたちが爆風ではねられて机の下敷きになっている。」
当時の教師・新里さん「2年生の教室の前から、子どもが火だるまになって出てきた。髪が燃えて、洋服が燃えて、最後にパンツの紐がジリジリと燃えていく。」
50年も前の事故の様子を昨日のことのように生々しく振り返る体験者たち。中でも衝撃的だったのは遺族が語ったわが子との別れの場面でした。
喜納福常さん、秀子さん夫妻「病院に行ったら、子ども捜したら、真っ黒けでお腹のバンドゴムしか残っていなかったわけですよ。そこだけ白くて。私はそれを見て気絶してしまったんですよ。」
喜納福常さん、秀子さん夫妻は二男の常次くんを亡くしました。全身に大やけどを負い、苦しい最期を遂げたわが子を思い、父親の福常さんがとった行動は想像を超えるものでした。
秀子さん「もう、火葬はしなかったですね。一度焼かれたからかわいそうで。火葬しようというけど、この人が焼かれているのに、また火葬するかと反対したんですよ。」
ハーフセンチュリーメンバー「痛みというのは私自身にはわからないことかもしれないけど、考えることで、伝えていくことで何か、自分たちがやるべきことをしっかりと考えていって」「親が子どもの話を生きていたらこうだろうなとか、この子はいい子でねと話すのを聞いていたら、苦しくて。こういうことは絶対に起きて欲しくないという思いで、前より強くなったので、それを表現できないかなと」
遺族にとっては忘れたい、けれど決して忘れられたくない記憶。しかし長い年月のうちに風化しているのも現実です。彼らの思いをどう汲み取り、未来に生かすか、演劇公演に挑戦するメンバーたちは話し合いを重ねています。
ハーフセンチュリーメンバー「ときを経ても子を思う親の気持ちは当時と変わらないし」「島から出発し、島からジェット機が出て行く現実を、基地があるゆえにということを、どこかの場面で入れないと」
ハーフセンチュリー宮森の舞台は5月30日から。この舞台を「いまの沖縄を見つめ、平和を考えるきっかけにしたい」とメンバーたちは考えています。