戦後70年企画です。沖縄戦当時をはっきりと記憶している世代は70代後半より高齢となり、戦争体験の継承が課題となっています。長年証言を続けてきた元ひめゆり学徒たちも80代後半。自らの体験を若い世代へと引き継ごうと取り組む姿を追いました。
今月11日。ひめゆり学徒が70年前に逃げ惑った南部を歩きながら沖縄戦を追体験する戦跡めぐりに、県内外から60人余りが参加しました。
バスの中島袋館長「本当に治療班も来ない壕でしたね。そこで1週間ぐらい働いていましたけれど…」
長年、表舞台に立ち、戦争と平和を語り継いで来た元ひめゆり学徒たち。戦跡を巡りながらの証言は20年ぶりのことでした。
大見祥子さん「私は包帯を解く役、そして手でほどけるのは手でほどいて、手でほどけないのはハサミを入れる。ハサミを入れると同時にあの膿の匂い。なんとも言えないんですね。」
元学徒たちは今では80代後半。戦時中に過ごした野戦病院や地下壕に立ち入るのは難しくなっていて、この日、元学徒たちの証言は移動中のバスの中が中心となりました。
そうした状況で企画された今回の戦跡めぐりは、元学徒らの体験を聞き取ってきた若い説明員たちが、ひめゆり学徒の体験を語る主役となるときを見据えたものでした。
説明員「最初は、外科、内科、伝染病棟科とありましたけれども、これが、戦争ですので、もう大けがの人がどんどん運ばれてくる中で、沖縄戦が始まってしばらくするとすぐ、全部が外科に、第一外科、第二外科、第三外科という風になっていきます。」
10年前から若い説明員を採用し、戦争体験の継承に取り組んできた、ひめゆり平和祈念資料館。現在は3人が元学徒らの証言をもとに、説明にあたっています。
説明員「ここから階段急になります、頭気を付けてください」「入ってすぐの時は電気も点いていたそうです、発電機があって、それで電気がこうこうとついていて、街みたいという風に仰っていましたけど」
南城市のアブチラガマ。分かっているだけで600人もの負傷兵と、近くの住民らが混在した大きな壕です。説明員は、ここで14人のひめゆり学徒が昼夜の区別なく手当に奔走した様子を、克明に説明しました。
説明員「謝花さんが居たら呼び止められて、『お前たちはヤマトの兵隊しかみないのか、ここにいるのはみんな沖縄の学生だぞ』と怒鳴られたと」
200人以上いた学徒は、それぞれ配置された壕や解散命令後の動きが異なり、それらを細かく説明していく難しさという課題はありますが、多くの元学徒の体験を整理して説明できるという、強みも発揮しています。
説明員「このお二人はここの中でずっと隠れている間にですね、友達が無くなっていくのを真っ暗な中で感じ取っているんですね。野ばらの歌を歌っていたのがだんだん聞こえなくなったと…」
参加者らは、ひめゆりの塔からほど近い、伊原第一外科壕跡や、自決に追い込まれた学徒らが辿り着いた海岸へも足を運び、ひとりひとりの学徒らが辿った残酷な運命を、胸に刻みました。
参加者女性「かえって私たちが知ってて教えないといけないようなことなのに、若い方から逆に習っていくって、素晴らしいことだなって、」
参加者男性「事細かく、いろいろ勉強してるなと。証言者の皆さん、体験された皆さんはおそらく安心の意味も持たれたんじゃないかなという感じしますよね」
説明員「何を使っていくのか、読むのか、絵を見せるのか、そういったこと、まだまだこれからね、やっていかないと、(館長)また来年やるとしたらまた工夫があって、今年よりもまたよくなるとは思います。」
戦跡めぐりの後に開かれた反省会。体験を伝えることへの想いを新たにした島袋淑子館長は最後に、戦争とはどんなものかを知らなかったことへの悔いが、次の世代に伝え続けることの原動力になっていると語ってくれました。
島袋館長「最後にもう沖縄戦が終わるというところまで勝つと信じていましたね。だから私たちは戦争が終わってから、知らないということは恐ろしいことだって、どんなことがあっても知ることだと思ったんですよ。だから私はひめゆり資料館は平和の砦と言っています。ここに来たら戦争のことがわかるし、命がどんなに大事か分かると思ってますので。」
あまりにも悲惨な戦争体験を知るには、学ぶ側にも覚悟が必要ですけども、ひめゆり学徒の戦争体験がこうしてしっかりと受け継がれていることは、戦争のない世の中を次の世代へ残していこうという想いを託されているということですよね。
私たちはそれをしっかり受け取らなければなりませんし、また次の世代にも受け継いでいきたいと思います。