南風原町は90年に南風原陸軍病院(正式名称:沖縄陸軍病院)壕を史跡に指定し、全国で初めて、いわゆる戦争遺跡を文化財に盛り込みました。あれから16年。壕の発掘調査からは様々なことが明らかになり、町はこの夏、平和学習の場にするため壕の本格的な整備工事に着手します。実近記者です。
今月19日、南風原町黄金森の丘で行われた地鎮祭。この小高い丘に掘られた、およそ30の壕が南風原陸軍病院壕です。
1944年、沖縄に展開した日本軍は直属の陸軍病院を当初、那覇に置きましたが、まもなく10・10空襲で焼かれ、南風原国民学校へと移転します。翌年の3月には、国民学校も空襲を受けると病院は、隣の黄金森の丘に掘られた壕の中へと移りました。
現在、壕は崩落の危険から、全て、一般の立ち入りが禁じられています。入り口の近くは、崩落が進んでいます。
南風原町文化課・上地学芸員「全部新しい面が出ている。(天井が)落ちて」
私たちが入った20号壕は全長およそ70メートルで、中央付近には左右に走る19号と21号の壕を結ぶ連絡通路があります。次第に壕は、黒い壁に覆われていきます。撤退後に焼かれた跡です。
壁に無数に走る傷は、ツルハシの跡。壕を掘る作業は全て手作業で行われました。壕を支えていた柱も残っています。
第20号壕は当時、第2外科に位置づけられました。最も重傷の患者を扱った場所です。
天井に「姜」という漢字が彫られています。当時、この下で2段ベッドの上に収容されていた朝鮮半島出身兵が自らの名前を記したものと見られています。
今回、整備される20号壕は今も残るこうした遺物を可能な限り保存、展示して壕が崩落しないよう、鉄骨で補強されます。
壕から撤退するまでの2ヶ月間、病院関係者とともに傷病兵の看護にあたったのが、ひめゆり学徒隊でした。
津波古さん「もうその傷を見てまず驚いた。今まで見たことない傷ですから。それに臭いです。もう血の臭い、膿の臭い、糞尿もあるし、もう本当にもう仕事というより、どうなるのか何も考えられなかったです」
極限状態の人間が交錯した、この壕での2ヶ月間は元学徒隊のメンバーにとっても特別な記憶となっています。
石川さん「(傷病兵が)『ポケットに写真があるからとってちょうだいと』と言って、『私の娘』だと見せてくれた。家族と別れて戦場に来て、どんなに家族や娘が見たいんだろうなと思って」
さらに、証言によると5月25日、歩ける者だけが壕から撤退すると重傷患者らは青酸カリで「処置」されたと言われています。
津波古さん「衛生兵が来て何かミルクなんか溶かしていた。それを配ったあとに大騒ぎが始まった。『馬鹿ヤロー』とか『お前たち人間かー』、『飲むなー飲むなー』と言って大騒ぎしていた」
南風原陸軍病院壕の患者数は2千人にのぼったと言われていますが正確な数字やその最期は、未だ闇に葬られたままです。
壕の整備工事はすでに一部が始まっていて今回、測量のために設置された仮階段を上がると、当時、壕が上空から爆撃された跡を見ることが出来ました。
石川さん「ドスーンと言ってから自分の体に響くような感じで、上の方に落ちたんだなと思ったんですけど、今はじめて見て、こんなに大きなのが。初めて見ます」
南風原町は現在、壕の保存活動と並行して、こうした壕周辺の戦跡の調査も進めています。壕の一般公開は来年4月(予定)です。
こうした県内の戦争遺跡、実は県全体に999箇所もあることが去年まで8年間かけて行われた県の調査でわかりました。風化が進む前に、これらをどう残していくのか。南風原町の試みは他の市町村にとっても参考になりそうです。