沖縄戦では軍民合わせて20万人を越える人たちが犠牲となりました。その中に、目や耳、体が不自由な障害者がどれほどいたのか、未だわかっていません。自らの戦争体験を伝え続ける、全盲の男性がいます。
県立盲学校の平和学習(戦争中の遺品を触っている子どもたちに話し掛ける教師)「これこれこれ、ガラスの瓶。こういうのを持ってから走っていくのもどう?」子ども「大変」教師「大変よね。」
県立盲学校の平和学習。視覚障害をもつ子どもたちは、自分たちの手で触れ、感じながら、沖縄戦を学んでいます。
男の子「逃げる時にやられたら絶対死んじゃうって感じる。」
男の子「今戦争が起きたら、僕は目が見えないから、お母さんたちと逃げようかな。家族と逃げようかな。はぐれたらどうしようって、今怖くなった」
山田親幸さん80歳。機会があるごとに生徒たちに戦争体験を伝えています。
山田親幸さん「この戦争というのは、障害者とか、お年寄りとか、子ども、弱い立場の人たちが先に亡くなる。」
生まれつき強度の弱視だった山田さんは、10歳で沖縄戦を体験し、高校卒業と同時に視力を失いました。山田さんのふるさと、大宜味村、喜如嘉。アメリカ軍の本島上陸の直後、家族9人で深い山の中に逃げ込みました。山田さんにとって、沖縄戦の記憶は、ほとんどが「音」の記憶です。
山田さん「これはね、ナービカというアブラゼミ。これが鳴き出しています。」Q:70年前も?「あの時もそう。」「(艦砲が)落ちて炸裂した時、爆弾とか。ものすごい爆風があるわけ。すると、セミもばっと飛ぶんですよ。」
避難した場所を探して、さらに山奥へと進みました。強度の弱視のため、細かいものが見えなかった山田さんは、ハブが出て来ないか、尖った枝で足を切らないか、怖い思いをしながら逃げたといいます。
やがて、防空壕が現れました。谷間には川が流れています。山田さんの幼馴染、平良真良さんもこの場所に避難した一人です。
山田さんの幼馴染・平良真良さん(80)「みんなたくさんいたから」Q:100人くらいいましたか?「そうでしょうね。里の人はみんなこっちに来たわけよ」
アメリカ軍の攻撃に怯えながら、森の生き物たちを食べて飢えをしのぐ苦しい避難生活は、3か月にも及びました。
山田親幸さん「空腹とか、お腹が空いたじゃない。ひもじいだ。」
12年前、南風原文化センターがまとめた障害者たちの証言集にはこんな体験も残されています。
「障害者の沖縄戦」
金城ウサさんの証言(肢体不自由)「(歩けない私を)おんぶしていたお姉さんが、安全な場所を探しに(壕)を出ていったら、そこで死んでしまった・・・壕で、一人になりました」
大城永三郎さんの証言(聴覚障害)「日本の兵隊がやってきて『お前、スパイじゃないか』と言われた。『耳が聞こえない』と言って、逃がしてもらった」
安仁屋教授「戦争状態が起きるということは、結局障害者が放置される。ほったらかされる。死ねと言われる。」
沖縄国際大学の安仁屋教授は、沖縄戦では、障害者や、高齢者、子ども、妊婦など、本来守られるべき、弱い立場の人たちが、戦争をすすめる上での妨げになるとして排除され、まっさきに、犠牲になったと指摘しました。そんな沖縄戦を生き抜いたからこそ、山田さんは平和の尊さを語り続ける道を選びました。
山田親幸さん「もう70年もたったから戦争は忘れたよということでは困るんですよ。戦争は私たちの努力でなくすることができるんですよ。人災、人間が起こしていることですから。」
本当に過酷な状況だったのでしょうね。戦争は兵士だけが戦うものではない。敵も味方も、弱い立場の人々も全てが悲惨な状況に追い込まれるということを改めて思います。
山田さんは「戦争は、たくさんの人を傷け、多くの障害者を生み出すものだ」とも話していました。