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69年目の「慰霊の日」を前に、今週は、今を生きる私たちがあの沖縄戦とどう向き合うかを考えます。

戦争体験者が近い将来、一人もいなくなる。そんな現実が迫る中で、戦争という負の出来事が生んだ戦跡を残そうとする男性がいました。

真嘉比・平和学習参加者(男性)「自分の実家の近くであんだけの激戦があったというのは全然分からないです。」

真嘉比・平和学習参加者(女性)「新都心もそういうところ(激戦地)だと知らなかったので、驚きです。」

那覇市で開催された平和学習の参加者が訪ね歩いたのは、高層ビルが立ち並ぶ新都心、そして開発めざましい真嘉比地区。69年前の沖縄戦では「シュガーローフ」、「ハーフムーン」と呼ばれる激戦地でした。

具志堅隆松さん「どんどん開発されて、ですから、シュガーローフでの遺骨収集は行われなかったです。」

ガイドは、遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんです。具志堅さんは、かつての激戦地が近代都市に姿を変える中、沖縄戦の実態をどのように伝えればいいのか、葛藤しています。

具志堅隆松さん「戦跡が開発されて、当時の面影のない場所でここが戦跡なんだ。戦跡だったんだと言う風に、過去形で喋らないといけないような、確かに無力感を伴うものがあるんですけれども」

この日、浦添市前田では、砲弾の先端部分が見つかりました。「魔の高地」と呼ばれた前田。しかし5年後のモノレールの開通にあわせた新しい街づくりに向け区画整理が急ピッチで進められています。

石川仁助さん「敵の戦車が進行してきて、火炎放射機で容赦なく(焼いた)」

ここで生まれ育った石川仁助さん。沖縄戦当時13歳でした。家族6人の命を奪った戦争は思い出すのも辛い記憶ですが、二度と戦争を起こさないために、この現場を後世に残したいと考えています。

石川仁助さん「人はどんなに神様にお願いしても、4、50年は生命というのはありませんから。そこで残るのは、苦い思いをした場所が残っていれば、目の当たりにして、あるんだと。これはその証だから。」

具志堅隆松さん「戦争を体験した人は確実にいなくなっていきます。そういう中で、戦争を残せるのは結局・・・現場なんですね。私たちが未来に残すべき「負の遺産」それをいま削ってしまっているんじゃないかって。」

消えていく沖縄戦の「負の遺産」県はどう取り組んでいるのでしょうか。

県教育庁文化財課・嘉数卓課長「県が保存しようと決めたものはないです。」

県が戦後初めて行った戦跡の調査では、979か所の戦争遺跡が確認されました。その後、県が市町村に行った調査の結果、「文化財指定をしている」と答えたのは、わずか10市町村、16件でした。

浦添市では、工事の前に文化財調査を行いましたが、戦跡として保存の対象とは認められませんでした。なんとか現場を残したいと、具志堅さんは、浦添市の議員らを現場に連れてきました。砲弾を取り出した壕は、すでに取り壊され、跡形もなくなっていました。弾痕が残っている墓は、今やこの一基だけです。

浦添市・当山勝利市議「ただ、前田の人たちは経塚地区と比べて(開発が)遅れているから、早くしてくれっていう思いがあるわけ。」

開発と歴史伝承のはざまで揺れる戦争遺跡。沖縄戦の体験者がいなくなったら、一体何がその実態を語るのでしょうか。

具志堅隆松さん「我々が住んでいる足元に犠牲になった人たちの血が染み込んでいるんだと、そう考えると、やはり二度と戦争は起こしていけないって。そう考える場所として、こういう場所が本当はあるんじゃないかと思っています。

浦添市前田の現場は、今後、住宅地になる予定で、唯一砲弾の跡が残っている墓は、来月中旬までにも取り壊される見通しです。今、戦跡の価値を見つめ直し、どう戦跡を守ってゆけるのか、県民ひとりひとりが問われています。