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Qプラスリポートです。あす5月3日は、憲法記念日です。

悲惨な地上戦と、27年間にもおよぶ占領を経験した沖縄にとって平和憲法は憧れの対象でした。ある男性の目から見た憲法と沖縄について考えます。

Q+リポート 平和憲法への憧れと現実

瑞慶覧長方さん「虐殺があったのはここですね。向こうから白い旗をもった(沖縄の)人が来て、ここにおる人に向かって、説得をしていたわけさ。」

沖縄戦当時、12歳だった瑞慶覧長方さんは、69年前の6月、地獄のような戦場と化した、ここ、摩文仁の丘で、恐ろしい出来事を目にしました。

ひとりの男性が住民たちに、アメリカ軍への投降を呼びかけていた時、突然、刀を持った日本兵が現れたのです。

瑞慶覧長方さん「(日本刀を)抜刀したままですよ、小走りにしたまま来てここで、説明している人、ちょうど後ろ側から、切ってしまったんですね。売国奴。スパイ野郎。貴様みたいなやつがおるからこうなるんだ、とわめきながら切っていた。」

捕虜になることは、最も恥ずべきこと。人々にそう教え込んだ軍国主義。戦争が残したものは、犠牲だけだったと、瑞慶覧さんはいいます。

Q+リポート 平和憲法への憧れと現実

瑞慶覧長方さん「やっぱり人間が人間でなくなる。戦争になると。だから、最終的には軍隊によって守ることは出来ないと言うのに、たどり着いたはず。」

沖縄戦の翌年に誕生した、日本国憲法。そこには「戦争の放棄」が約束されていました。

琉球大学・高良鉄美教授「どんな人が政治を取ろうと、政治は変わらないとするために基本を定めたのが憲法ですね。」

しかし、沖縄戦から7年後、サンフランシスコ講和条約により、沖縄は本土から切り離され、その後もアメリカ軍の統治下に置かれ、日本国憲法の蚊帳の外に置かれたのです。

沖縄戦が終わってもなおアメリカ軍による事件や事故に巻き込まれる沖縄。一方で、ベトナム戦争では出撃基地として、戦争の加害者の側に立たされてきました。

Q+リポート 平和憲法への憧れと現実

瑞慶覧長方さん「我々沖縄人は一体どこの人間かと。日本人であるならば、日本国憲法で守られなければならない。しかし我々はその保証はなにもない。」

「平和憲法のある日本に帰りたい」そんな人々の先頭で、本土復帰運動を進めたのが、瑞慶覧さんの高校時代の恩師であり、初代沖縄県知事、屋良朝苗さんでした。

当時、屋良さんの側近として復帰運動を支えたひとり、石川元平さんに、屋良さんはいつもこう話していました。

石川元平さん「(沖縄戦と)同じように基地の島としてまた利用されて、二度と国家権力の手段として利用されて、犠牲をこうむるようなことがあってはならない。」

1972年、ようやく手に入れた本土復帰。しかし、その実態は、人々の願いとはかけ離れたものでした。

石川元平さん「基地はそのままにしてアメリカが握っている施政権だけ(日本に)返すという。大いなる失望、ある意味の挫折。」

帰るべき祖国と信じていた、平和憲法をもつ日本。そこにあったのは、日米安保の名のもとの沖縄への基地の押し付け、そして、21世紀を迎えてもなお、戦争を続けるアメリカの姿でした。

瑞慶覧長方さん「知らず知らずのうちにああいう風に加担させられて、ほとんどの人が分からないうちに全部加害者にさせられている。ましてや憲法9条を変える前に解釈まで変えようとしているんだからね。恐ろしいですよ。」

Q+リポート 平和憲法への憧れと現実

ことし4月29日、安倍総理は「憲法解釈(見直し)の必要があれば、閣議決定を行い、国会で議論していきたい」と話します。

沖縄の人々が、必死に手に入れようとした平和憲法。いまだ憲法の外に置かれ続ける沖縄がある一方で、憲法の解釈が帰られようとしている今、あの時代に憧れた平和憲法が原点から崩されていくようだと、瑞慶覧さんは話します。

瑞慶覧長方さん「我が国の情勢見ると、あまりにもあれ(沖縄戦)に近づいていく恐ろしさを感じていますから、とにかくああいう戦争というのはね、一度我々が経験しただけで十分なんです。戦争の多大な犠牲があった上で得た「憲法」が施行されたのは67年前のあすです。」