Q+リポートです。沖縄からの疎開者を乗せた船「対馬丸」の事件について、先月から始まったリポートの2回目です。事件から70年、体験者の高齢化が進む中、戦争の悲惨さをどう次の世代へとつないでいくのか。対馬丸体験者の母と学芸員の娘、二人に思いを聞きました。
戦争の悲惨さを物語る品々、当時の劣悪な状況を伝える再現などが展示された南風原文化センター。
平良次子さん「一番最初に展示をする時にいろいろ議論した結果戦争を見せようと最初に中を通ってみてこれはなんだというところから考えてもらおうという展示ですね」
展示内を案内するのは学芸員の平良次子さん。南風原から見た沖縄戦をテーマに過去と現在とを照らし合わせ沖縄戦がなぜ起きたのか、考えてもらうよう工夫した展示をしています。
平良次子さん「なぜそんな戦争に向かったか、なぜこんな戦争が出来たかということを学ぶことはとても大事だと思いますよ。遡ってみた時にまた(戦争までの歴史を)繰り返していると感じるなら止めないといけないと思うんですよね」
次子さんは沖縄戦の生存者を訪ねては話を聞き、戦争の記憶をこの場所で伝え続けています。この日も、南風原から宮崎への疎開経験者と会い、写真などを見ながら当時のことについて話を聞いていました。次子さんが戦争の歴史に興味を持ち調査をする根底にはある人の存在がありました。
平良次子さん「案内しながら、見学者から聞かれたこともあるんですけど、なぜ戦争体験者ではないあなたや私たちが戦争の歴史を知る必要がありますかと聞かれたんですね。その時にパッと答えられなかったんですけど、あとで考えたときに、ふと親が浮かんできて…」
道を歩くのは、次子さんの母、平良啓子さんです。70年前、国民学校4年生だった啓子さんは、兄弟らとともに疎開のため対馬丸に乗り込みました。そして8月22日、あの悲劇にあいました。
平良啓子さん「70年目ですよ、でも忘れられませんね、頭にこびりついています、海に沈んだ子どもたちの姿が見えるんですよ、生きていてすまないな、私は生きているんだったらこの子たちの霊を慰めるためにも、二度とあんなことがないように戦争をしないような世の中を作るためには叫ばないといけないと思って」
啓子さんは戦後、自分の経験を子ども達に伝えようと学校の先生となりました。平和な世の中を作ること、命を大切にすることを子ども達に語り続けてきました。その啓子さんの胸の内には、今でも治ることのない傷があります。
平良啓子さん「いとこの時子は親は反対するのに“啓子が行くなら私も行きたい”いとこで同級生だからいつも一緒だから許可したら喜んで私たちと一緒に船に乗りまして」
啓子さんと仲良しでいつも一緒にいた宮城時子さん。対馬丸撃沈後、波に飲み込まれ帰らぬ人に。何とか生き残って帰ってきた啓子さんに時子さんの母親がぼそりとつぶやいた言葉。
平良啓子さん「啓子は帰ってきたね、うちの時子を太平洋においてきたの?って言われました、私が時子を殺したように感じられて本当に悔しいですよ。その思いがあるから絶対子ども達に戦争して人を殺すような勉強させるようなことは絶対にさせたくないと思いますね。」
そんな、啓子さんも間もなく80歳、戦争体験者の高齢化は進み、いづれ体験者としての語り手はいなくなるという現実が待っています。その現実を受け止め、次の世代につないでいくことが大切だと娘の次子さんは言います。
平良次子さん「危機感は持たない方がいいと思うんですね、体験者が高齢化して亡くなるのは当然のことです。体験はもちろんないですよ、その人たちはもちろん体験がありました、だけど伝えたいことはしっかり受け継いでいるつもりですという気持ちで伝えないと伝わらないと思うんですね」
母の啓子さんも思いを託します。
平良啓子さん「聞いている子ども達は良いんですけど、これからの子ども達というのは語る人がいなければわからないわけだから私が死んでしまったら、私のことを話してくれたらなと思っている私の母は対馬丸に乗って、こういうことが起こりましたと誰かに継いでもらわないとね」
平良次子さん「私たちは体験者じゃないので、見た通り聞いた通り感じた通りに体験したことは話せないにしても、そういうことをどんな気持ちで語っていたかということは伝えることができるかなと思うんですねもっと大事に体験を聞けるようにしていきたいと思います」
対馬丸事件から70年。たとえ長い期間を経ても、その記憶は薄まることなく親から子、そして次の世代へとつながっていきます。取材中、2人が口にしていたのは、今の日本の状況を見ていると、歴史を繰り返すのではないかということだったそうです。70年前の戦争の記憶。戦争体験者の思いを受け止める私たちには、大きな責任があります。