今年1月の、高校総体・フィギュアスケート。この舞台に県勢初の代表として出場した花城桜子さんは、震災で沖縄へと避難してきたフィギュアスケーターです。現在、那覇国際高校に通う桜子さん。3年前の震災で、元いた宮城県仙台市の自宅やスケートリンクが崩壊し、母の故郷・沖縄へと避難してきました。
親の転勤で暮らしていたドイツでスケートに出会い、その後引っ越した仙台市で本格的に練習を積んだ桜子さん。日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる宮城でコーチやライバル、練習環境に恵まれめきめきと実力をつけると、中学1年で宮城県大会優勝、東北大会で2位に入り(全国大会に出場するなど)その頭角を現します。これからさらに上のレベルを目指そうとした時に起きたのが震災でした。
花城桜子さん「その時は半分諦めていました。いつも滑っているもんだから、ぽっかり穴があいちゃったような状態で、早く滑りたいけどそんなことを言っていられない状況が続いていました。」
山形や鹿児島、避難のため全国を転々としたあと移り住んだ母・順子さんの那覇市の実家。そこには、桜子さんの宮城での写真や賞状など、思い出の品が飾られています。
花城桜子さん「これは震災の1週間後に開催予定だったシーズン最後の大会なんですけど、北日本大会と言って私たちの世代の人だったらこの大会が終わったらいったんシーズン区切りというような大会です。残念ながら震災で、あんなふうになってしまったんですけども。」
その中で、桜子さんが特に思入れが強いものがこのスケート靴です。
花城桜子さん「このスケート靴は震災の時に持って逃げた靴で、あまりうちの家計もそんな裕福じゃないなか、お母さんがずっと働いてがんばって高いスケート靴買ってくれたり、そうやって頑張ってくれたので(なぜそこでスケート靴を選んだんですか?)高かったのもありますし、これがないとスケートが出来ないのでとりあえず持っていこうと思って。」
避難に一刻の猶予も許さない状況の中、持てる限りの食料とともに手にしたスケート靴。震災後、スケートへの思いを諦めなかったのはこの靴のおかげでもありました。
花城桜子さん「リンクが壊れてしまって修理の間とかなかなか滑れなくて、それでもスケート靴は身近にあって、また久しぶりにこの靴で滑れたときは嬉しかったので、そういう思い出もたくさん詰まっています。」
現在、桜子さんが練習を積んでいる沖縄唯一のスケートリンク、南風原町のサザンヒル。お世辞にもスケートがメジャーとは言えない沖縄。スケートクラブの練習が充実していた仙台に比べ練習時間は激減。コーチは、震災前に桜子さんを指導したことがあり、同じく宮城で被災した佐藤理恵さんが、桜子さんの成長を支えようと神戸から沖縄に教えに来ています。しかし、それも1カ月に1回ほどで常にコーチが見てくれていた以前とは違います。環境の変化は結果にも表れ、1月のインターハイでは、仙台にいたころ一緒に練習していた仲間が成績を残す中、桜子さんは予選敗退。悔し涙をのみました。
花城桜子さん「ボロボロでした、自分のできることもできずにおどおどして終わってしまったと思うので。」
震災で、全く変わってしまった環境。スケートを再開したものの、結果に表れる厳しい現実。しかし、震災でのつらい経験が、逆に桜子さんを強くしたと常に娘に寄り添ってきた、母・順子さんは言います。
花城桜子さん母・順子さん「今回の被災で得たことは転んでも立てばいいからって、次に頑張る力があれば人間何でもできるんじゃないかなって思うようにはなりました。私自身もくじけそうになった時は彼女に助けられますし、そこは強くなったと思います。」
花城桜子さん「続けられているだけ幸せだなと思います。亡くなった方の分までしっかり生きて感謝の気持ちを忘れずに日常が当たり前じゃないんだということを学ばされたので。」
震災から3年―今思うこと―
花城桜子さん「震災にあっても立ち直れるんだよというのはわかってほしいなと思います。震災にあったとかどうのこうのではなくて、今をしっかり生きているんだから、しっかり生活をして生きていけたらいいなと思っています。」
雪辱を誓う、来年のインターハイに向け、桜子さんは立ち上がり、ここ沖縄から前へと進みます。