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去る日曜日、珊瑚舎スコーレ夜間中学では第1期生の卒業式が行われました。戦中・戦後の混乱で義務教育を受けられなかった人々。いつの日か学びたいという願いを叶えてくれた場所が夜間中学でした。巣立っていく卒業生を取材しました。

珊瑚舎スコーレ夜間中学が開校したのは、2004年の春。沖縄で初めての夜間中学の誕生は、多くのお年寄りたちが待ち望んだものでした。その時入学したのが今の3年生。この春12人の内、8人が卒業を迎えることになりました。

3年・宮里タツ子さん「とっても自信ついてますよ。だいたい、新聞も読めるようになりました。書くのはちょっとあれですけれども、読むのはね。もう結構ね」

いつも劣等感をひきずってきたと話す宮里さんも、ここへ来て、ようやくそんな想いから開放されたと話します。珊瑚舎に通う多くの生徒にとって、学校に通えなかったことは、これまで大きな心の痛みとして残ってきたのです。

朗読会・平敷和子さん(仮名)『その家は奥さんが学校勤めで、今で言う共働きでした。私の役目は、台所と時間になると赤ちゃんを連れて学校にお乳をあげるために通うことでした。自分が一番行きたいところに赤ちゃんを連れて行く。その屈辱感が嫌で』

平敷さんは戦後の貧しさから、13歳で住み込みの仕事に出た為、中学校へは通えませんでした。あの時果たせなかった思いを叶えたいと、毎日片道2時間半をかけ、バスを乗り継いで通いました。

平敷和子さん(仮名)「今更っていう人もおりますけれども、やっぱり知ることの喜び、学ぶ楽しさというか。学歴じゃないんです」

学ぶ喜びを知った卒業生の内、6人が高校への進学を希望。しかし、ここに一つの大きなハードルがありました。民間の珊瑚舎スコーレは法で定める夜間中学校ではないため、正式な卒業認定が得られないのです。この問題は沖縄県議会でも再三に渡り、取り上げられました。その結果・・・

仲宗根用英教育長「戦後処理の一環として位置づけ、特例措置として中学校の卒業に相当するものと認め、高等学校への受験も可能となりました」

しかし、大きな課題が残っていました。県が特例措置で認めたのは、県内の通信制・定時制高校へ進学する人に限られたのです。

星野人史校長「中学校卒業そして履歴書に書ける、そういう卒業認定の中身にはなっていない。今回の件はそれを一歩前進させて、受験の道を開いたっていうことで、大変評価は出来る。しかし、その奥にはまだまだ問題が山積している」

与儀初子さん「大丈夫だと思うけど、面接の方であがるかもしれない」

宮里さん「もう、初体験でもう。ドッキンコーしてます。何十年前も、お友達もこういう気持ちだったのかなと思うと」

試験は面接と小論。テーマは『学ぶことの意味について』。それぞれが、身を持って感じた想いを綴りました。

平敷和子さん(仮名)「あの珊瑚舎スコーレで学んだこととか、知識を深めたくてこちらで学びたいとか、そういう気持ちも」

受験を終えた生徒たち、清々しい表情です。

宮里さん「私今日ね、珊瑚舎スコーレの先生方の顔が目に浮かんだよ〜。本当に!!懐かしい。書きながらよ!」

卒業式を間近に控えたこの日。星野校長は、1枚ずつ丁寧に卒業証書を作っていました。

星野校長「1人1人過ごす時間の中身が違うわけでしょ。だから最後に贈る言葉もそれぞれ違うわけでね。書いている内にうるうるしてくるんですよ。まあ、最後のラブレターですね」

それぞれが熱い想いを胸に迎えた卒業式は、大勢の子や孫が見守る中行われました。

星野校長「夜間中学の開校を知って、あなたは思わず『神様は私を救ってくれた』といいました。入学してからのあなたは実に穏やかな、しかし、決して消えることの無い熱意を持って学び続けています。教室で輝いています」

宮里さん「夜間中学は本当に素晴らしい学校です。珊瑚舎スコーレに関わって下さった全ての方々にいっぱいの有難うを声高く申し上げます」

宮里さんの娘さん「感激で胸がいっぱい。珊瑚舎スコーレのおかげで、やっと母は自分の人生を歩むことが出来たんだなって思います」

高校に進学する人、もう少し珊瑚舎に残って勉強する人、それぞれの春を迎えます。