沖縄防衛局が作成したサッカー場の調査報告書に何度も登場する物質があります。ペンタクロロフェノール・PCP。報告書では「除草剤」と記されていますが、このPCPはかつて復帰前の沖縄で大事件を引き起こしていました。
東京大学名誉教授・森敏さん「昔の研究者によっては常識で、PCPは急性の呼吸毒性の物凄い強い化合物です。青酸と同じくらい強いもので。
こう語るのは、東京大学名誉教授の森敏さん。森さんはおよそ40年前、沖縄で起きたPCPを巡る事件を調べレポートを書いていました。その事件とは 1970年から71年にかけてアメリカ軍から民間の業者に払い下げられたPCPのドラム缶5000本以上が南風原や具志頭に放置され地下水を汚染。南部地域4つの村で給水が止められたのです。
また、近くの学校の児童たちが下痢や腹痛を訴えるという事態にもなりました。PCPはかつて日本国内でも農薬として使われていましたがあまりに毒性が強く問題になっていました。当時沖縄で見つかったドラム缶にも防護メガネや防護服を着るよう注意書きがされていました。
森敏さん「日本の稲作に繰り込まれていた体系で、なかなかやめられなかったんですが、毒性が強いので、入れた途端にゲンゴロウが浮かび上がって来て、日本の水田は物凄く酷い状況になった。」
その後の調べで、業者がアメリカ軍から払い下げられたPCPは100トンにも上っていたこと、それを持て余し、アメリカ軍に返そうとしたものの断られ、北谷、沖縄市などに廃棄していたことがわかりました。
しかしなぜ、そんな危険な除草剤をアメリカ軍が大量に沖縄に持ち込み、業者に押し付けたのか、当時の新聞ではある疑惑が報じられていました。
アメリカ軍がベトナム戦争で展開した枯葉作戦。敵が隠れているジャングルを破壊し、食料を枯らすための作戦ですが、PCPもその作戦に使われていたのではないかというのです。森さんは、PCPを燃やすと毒性の強いダイオキシンが発生することに着目し、こんな疑いを持っていました。
森敏さん「私の感じではベトナム戦争のとき、ナパーム弾と一緒に燃やして使うためのものだったのではないかと。燃やすとPCPもダイオキシンが出る、毒性の強いダイオキシンが出るから。」
当時、琉球政府の公衆衛生の責任者だった吉田朝啓さんは、琉球政府の担当者とアメリカ軍の係官とのこんなやり取りを覚えています。
吉田朝啓さん「現場で、県が焼こうとしたら、やめてほしいと。浜辺で焼こうとしたけど、県独自で。そうしたら(米軍の)係官が飛んできて、飛んでもない焼くことだけはやめてほしいと米軍の将校が。なぜかと聞いたら、世界最悪の毒が発生すると。」
燃やすと世界最悪の毒が発生するとアメリカ軍が言ったPCP。しかしその後、牧港の発電所で燃やされていたことがわかりました。森さんは自身のレポートでこの一件を「琉球政府とアメリカ軍が一体となって行った人体実験」だと厳しく批判していました。
森敏さん「多分牧港発電所は当時フィルターはついていないでしょ。ダイオキシンが大量に発生していたはず。目の前から消してこの事件を早く終わらせたいと言う立場ではなかったかと思います。」
本土復帰前の沖縄で起きたアメリカ軍の払い下げ物資による土壌や地下水の汚染事件。国会では佐藤総理がこう答弁していました。
佐藤総理「施政権が日本に返って来た後は、ただいまのような状況は解消される。お互いに信用してこそ初めて同盟条約と言うものは有効だ、不信をかうような行為があったら、これはもう存続の意義がなくなりますから。」
しかしこうした問題は沖縄が本土復帰して41年経った今も解決されていません。1971年、沖縄の本土復帰を前にアメリカ軍基地から1万3000トンもの毒ガスが撤去されるとき、森さんは琉球政府の視察団としてその移送を見守りました。
今は福島で放射能の調査にあたっていますが40年以上経ってかつて調べたPCPが沖縄で再び姿を現したと聞き複雑な思いを抱えています。
森敏さん「レッドハット作戦が始まったときに、調査団として参加して、実際に弾薬庫を見て回って、毒ガス撤去闘争に立ちあって、大変な毒ガスがいっぱい貯蔵されていたんだと。基地がある限りはこういう問題は続く。基地が返還されるのは良いことだから、それを何とか化学的に正しい処理方法で解決するべき。」