54年目の夏。宮森小学校には今年も70代、80代になった遺族たちが足を運び手を合わせました。
新垣ハルさん「いつになったら忘れるかと思う。(自分が)亡くなったら忘れるかも」
喜納秀子さん「無残ですよ。54年経っても頭にまざまざのこっている」
しかしこの場に来ることができなかった遺族もいます。伊波春代さん。早くに夫を亡くし、女手一つで子どもたちを育てていた矢先、息子の正行くんを亡くしました。
伊波春代さん「安置室で寝かせているのに、安置室がわからんで、シーツかぶせてあったんですよ。それをゆっくり上げて『正行』と呼んだら、冷たくなっているさ。くるんだまま連れて来てですね。一晩中眠れないですよ。抱っこして」
1959年の沖縄はアメリカ軍の統治下。本土から切り離され、住民には人権への配慮もありませんでした。春代さんは当時を象徴するこんな体験をしていました。補償交渉の席でアメリカ軍の兵士に銃で脅されたのです。
春代さん「私もこのくらいのお金だったらあるから、あげるから、あんたの子どもをまな板の上に置きなさいと言ったら銃を向けられた、私に。銃をつかまえて、殺してごらん、できるなら殺してとやったら、話もしないでそのまま帰った」
春代さんはこれまで毎年、慰霊祭に参加していました。一昨年には担任の先生と再会し、こんな会話をしていました
担任だった比嘉静さん「ごめんね。正行を」
春代さん「いえいえ、先生のことじゃないよ。アメリカのジェット機が憎らしい、本当に」
静さん「私はミルクを注ごうとしたんだよ。そのミルクを飲まないうちに逝っちゃった。ごめんなさい」
今年の慰霊祭。春代さんは体調を崩して、どうしても小学校に行くことができませんでした。時を経ても悲しみは癒えないのです。
春代さん「考えても考えても子どもたちがとてもかわいそうですよ。オスプレイを配備して、もっともっと沖縄をいじめようとしている。将来、子どもたち、ひ孫たちはどうなるか考えたりする」