先月、政府の「主権回復の日」式典が県内を騒がせました。サンフランシスコ講和条約の発効した4月28日の捉え方をめぐり、政府と沖縄の新たな溝が浮き彫りになった形ですが、この日県内では、ある男性が作った一曲の歌がステージで歌われ、注目を集めていました。
「♪うんじゃんわんにん やーんわんにん 艦砲ぬ喰ぇー残さー」
4月28日、人々が聴き入るのは、「艦砲ぬ喰ぇー残さー」。沖縄戦を生き残った人々を「艦砲射撃の喰い残し」と表現した歌詞で知られる歌です。この日は、政府の「主権回復の日」式典が開催された日。
観客「こういう戦争でやられた我々の思いを(国は)全然知らないなというのが私の今の実感ですね。」「本土と切り離された日から、またこういう歌を聴いて、私の胸におさまってるということですね。」
4人姉妹の民謡グループ「でいご娘」。長女の島袋艶子さん。
島袋艶子さん「父が幸せな時につくった歌で、戦前そしてまた戦争の時、戦後。こういった形で父の自分史みたいなものね。」
歌をつくったのは、音楽が大好きだった艶子さんの父、比嘉恒敏さん。沖縄戦で最初の家族全員を失くした恒敏さんは、戦後再婚し、授かった艶子さんらと音楽活動を開始。歌には、再び手にした幸せがずっと続きますようにという恒敏さんの願いが込められていたのです。
しかし突然、その幸せは奪われます。1973年、飲酒運転のアメリカ兵の車が、恒敏さんらを乗せた車に激突。艶子さんたちは、恒敏さんと母を失いました。
島袋艶子さん「また戦争潜り抜けてきたのにさ。またこういったそういった酔っ払い運転で、自分までも死んじゃったわけって考えると、それがもっともっと悔しくて。」
兵士らは日米地位協定に守られ、全員本国へと帰ったきり。艶子さんたちには、補償どころか謝罪すらもありませんでした。
普天間基地のゲート前に集まる人々。オスプレイの撤去を求めて、艶子さんも去年からこうした集会で、歌を披露するようになりました。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」が歌うのは、あの日も今もアメリカの下に置き去りにされた沖縄の姿です。
島袋艶子さん「『うっちぇーひっちぇーむたばってぃ』というのが(歌詞に)あってね。『むたばってぃ』というのは、あーでもないこういう風にされてるってことよ。今の沖縄。あ-でもないこーでもない。こういう風に反対したらまたそうじゃない。またどんどんやっちゃうみたいな。やっぱりもう翻弄されてる。私はそう思います。」