うるま市の宮森小学校にアメリカ軍の戦闘機が墜落して53年となる今年、この悲劇を語り継ごうと映画の制作が行われています。「ひまわり」というタイトルにまつわる悲しい思い出。そして子役たちの奮闘ぶりを取材しました。
1959年、うるま市でアメリカ軍機が墜落し、18人が亡くなった事故をテーマにした映画「ひまわり」。今月14日のクランクインを前に、子役たちが連日稽古に励んでいます。
映画のモデルになったのは遺族や教師など、およそ40人の話を綴った3冊の証言集でした。手がけたのは豊浜光輝さん。事故の際、遺体安置所で遺族の対応にあたり、地獄のような光景を目の当たりにしていました。
『親たちは、わが子を捜すのにまず子どもの教室を訪ね、それから校庭を血眼になり、名前を連呼しながら、駆け足で歩きまわる』
『学校にもいない、家にも帰っていない。最後に捜すところは遺体安置所であった。そこで我が子と対面した時の親兄弟の叫びと涙は、私はあの状況をどう証言して良いかわかりません』
多くの人が忘れたいと思っていた記憶。豊浜さんがそれをあえて残そうと考えたのはこんな思いからでした。
豊浜光輝さん「私たちはいずれは寿命が来て、死んでしまいます。何が残るのかと。証言しかないでしょうと。証言が歴史を作るんだよと。ただジェット機が落ちた。17人が亡くなった。後遺症で1人亡くなったと。これだけでは、亡くなった人がかわいそうじゃないですか」
実は「ひまわり」という映画のタイトルもある証言からとったものです。それは平凡な毎日の中では気にも留めないような些細な出来事、しかし事故の後は一生忘れることができない辛い思い出になってしましました。
「ミルク給食の時間ですよ。係りの人は準備してください」「先生、はい」「一平くん、花壇の花とったらダメじゃない」「だから先生にあげるよ」
事故の直前、1人の児童が校庭に咲いていたひまわりの花をとって、担任の先生に手渡しました。上間芳武くん(当時9歳)。上間くんは先生に花を渡し、教室を出て行った直後、亡くなったのです。
吉村佐代子さん「その頃は花壇の花を咲かせようという勝負があったのよ。私の所はヒマワリを植えることになったの。ちょうど6月ごろに咲くんですよ。そしたら芳武くんがどういうわけか、私にくれると言って、一本折って持ってきたんですよ、教室にね。先生にあげるって」
兄・上間義盛さん「ブランコに乗って遊んでいたらしい。爆風に飛ばされて壁にぶつけられ亡くなったということですね言葉では表せないくらいでした。お父さん、お母さんは泣き崩れて」
吉村先生はこの時のことを長年悔やんできました。まさか、このやりとりが上間くんとの別れになるとは思わず、彼を叱ってしまったというのです。
吉村佐代子さん「あげるという気持ちを大切にすれば良かったのに。どうして咲いている花を折ってしまったのって注意したのよ。後で考えたら、一言だけあの子の気持ちもわからんで、褒めてあげれば良かったって後悔したけどね。ひまわりの花が咲く時期になると、嫌でも思い出すんですよ」
宮森小学校で行われた慰霊祭には多くの遺族や教師たちが訪れました。
新垣ハルさん「きょう朝も仏壇に向かって、きょう53年目の慰霊祭ですから、あんたの供養しに行くので、母ちゃんと一緒に行こうね、私についておいでねと言って拝んでいて。私のそばに来ているはずよ」
比嘉静さん「そうですね、何かね、行かなければならないといったら義務感だけど、そうじゃなくて、やっぱり行きたくなるんです」
18人の命、そして子どもたちの輝く未来を奪ってしまった事故。子役たちも小さな心で事故の日意が気を受け止め、語り継ごうとしています。
金森喜祐さん「悲惨な映画なので、気持ちを忘れないで、しっかりやりたい」
神谷優羽雅くん「こんな酷いこと忘れたらダメなので、みんなに伝わるように演技して頑張りたいと思います」
兼城夏穂さん「53年前、しっかりと生きていた子どもたちの気持ちを代わりに伝えることができたらと思います」
ひまわりはこの冬公開の予定です。
この映画をつくるにあたっては「成功させる沖縄県民の会」が立ちあがり、製作協力券を一枚1000円で販売し製作費を集めています。これは映画の完成後観賞券にもなります。
今、オスプレイの配備などに揺れる沖縄ですが、過去に戦闘機が墜落し多くの尊い命が失われた事実を忘れないよう、語り継いでいかなければと思います。