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30年もの間、ボランティアで遺骨収集を行い、土の中に埋もれたままになっている戦没者の遺骨の物言わぬ声を聞き続けてきた具志堅隆松さんです。

志堅隆松さん「地面の中で助けを待っている戦争で亡くなった人たち。私は“助けて”って言う声もあげきれない“弱者の中の弱者”って呼んでいます」

高校生に土の中の“物言わぬ遺骨の声”を伝えるのはガマフヤーの具志堅隆松さんです。

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土の中から今でも掘り出される67年前の犠牲者達。具志堅さんは骨を一つひとつ取り出すのではなく、周囲の土を丁寧に取り除くことで、彼らがどのようにして死を迎えたのか、あえて、見るものに想像させるようにしています。骨は沖縄戦の恐怖と狂気を、時を越えて強烈に訴えてきます。

男子学生「まだ沖縄戦は終わっていないと思いました。全部(遺骨が)回収されてこそ、終結を迎えるんじゃないかなと思います」

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具志堅さんの遺骨収集のボランティア活動は今年でちょうど30年。28歳の頃のボーイスカウトの活動で、たまたま遺骨収集を手伝ったことがきっかけでした。20代の具志堅隆松さんの心に届いた遺骨の小さな声。それが30年間の活動の始まりでした。

具志堅さん「亡くなった遺骨の方たちっていうのは、とっても語りたがっていると思っています。何を語りたがっているのかというと、まず一番めに家族の元に帰してくれと言うこと。そして二番目に、二度とこうい目に誰も合わさないでくれというような」

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21日、具志堅さんの姿が那覇空港にありました。ある人を出迎えるためです。千葉県から訪れたのは、朽方成美さんら家族5人。去年、沖縄戦で初めてDNA鑑定による身元が特定された元日本兵・朽方精さんの甥や姪にあたる遺族です。

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朽方精さん。2009年12月に那覇市真嘉比で見つかりました。67年前、わずか1週間の戦いで日米双方に5000人の死者が出たと言われるシュガーローフをめぐる戦闘で、朽方さんは亡くなりました。朽方さんの死から、67年にして、初めて遺族が最後の場所を訪れました。

具志堅さん「ここで遺骨収集をやっていた。朽方精さんが見つかったのはちょうどこの場所です」

精さんのおい・朽方成美さん「良く見つけてくださいまして、ありがとうございました。お互いにね。精さんも安心しただろうし、私も安心した。皆さんにお世話になったという気持ちですね」

精さんのめい・吉野花江さん「沖縄で亡くなったということは聞いていても、何処ってことがわからなかったわけです。まさかこんな時が来るとは思っていませんでした。この場所に来られるとは思っていませんでした」

具志堅さん「67年たっても遺族は遺骨が帰ってくることに対して安心感を憶える。そこで亡くなった人への、自分の心の区切りをつけることができる」

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DNA鑑定によって初めて沖縄戦犠牲者の身元特定が出来た今回のケース。厚労省は2003年度から戦没者遺骨のDNA鑑定を行っていますが、去年までの9年間で鑑定した総数は1550件。

沖縄戦の遺族らからは、これまで46件の申請があり、うち28件が鑑定を済ませましたが、DNAが判明したのは朽方さんのみ。残る18件は現在、鑑定作業の結果を待っています。

新しい技術が身元の特定に繋がると期待が集まる一方で、DNA鑑定には課題もあります。

ひとつには、沖縄の高温多湿の気候はDNAが壊れやすく、遺骨からDNAを抽出するのが非常に難しいということ。また遺族の高齢化に伴い、DNAを比較する検体の数が限られてくること。そして、DNAでの身元確認という周知そのものが遺族らに知れ渡っていないということです。

朽方成美さん「見つかって、私どものように遺骨が帰れば、家族としても喜ぶんじゃないです」

10万人を越える沖縄住民の犠牲者の身元がDNAによって判明するのか、今、その結果が待たれています。

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具志堅さん「67年経っても帰ってきてほしいという気持ちを抱き続けているというか、忘れないというか、それが絆かなって思いました。今までやってきたことの、望んでいた成果をきょう自分の目の前で見た気がします」

朽方さんの遺骨が見つかった真嘉比だけで172人分の遺骨が出てきました。しかし、身元が分かったのは1体だけ。

沖縄戦に巻き込まれた住民の場合は、部隊の名簿もなく、持ち物に名前を記したものも少ないということもあり、特定されにくいわけです。

そこでDNA鑑定に望みが託されてくるわけで、国や行政が積極的に、遺族へ働きかけることが求められます。多くの遺骨は土の中に眠っています。