語り継ぐ沖縄戦2012、戦後67年、戦争を体験した人たちが高齢となり、どう語り継いでいくかが大きな課題です。
きょうは、戦争体験を若い人に伝えたいと元なごらん学徒が北部での戦争がどういうものだったかを高校生に語りました。生徒達はどう考え、何を感じ取ったのでしょうか。
上原米子さん(86歳)は自身の体験を絵で表現しています。元なごらん学徒の上原さんは沖縄戦当時、看護要員として動員され、次から次へと担ぎ込まれる負傷兵の看護に当たっていました。
上原米子さん「忘れられない光景でね。だから今、思い出しながらそのときの光景を書いている」
その過酷な体験も、戦争で兄や父、親戚を失ったため、語る気にはなりませんでした。しかし、小学校の教師をしていたころ同僚から進められて書いた手記が、戦争を語るきっかけとなりました。
米子さん「『自分は、家庭でも面白くないことがあって、学校でもいじめにあって自殺しようと思ったけど、上原さんの手記を読んで生きる勇気をもらいました。こんなやって死んだらいけないと教えられたような気がします』と」
戦争の悲惨さを伝えたいと、続けている語り部は今年で10年になります。今月9日は、北部地域の高校生と共に名護市や本部町の戦跡を回りました。自分達の地域でどんな戦争があったのか。体験者に会って、自分で歩いて確認したいという高校生の姿もありました。
大城ことねさん「大きい戦争は中南部ってわかっているけど、名護市の戦争がわらなくて。おばあちゃんに一回聞いたことがあるんですけどとても、悲しい顔してもうやりたくないって話していたんですよ」
米子さん「足を切断するときも麻酔なし、こんな大手術も麻酔なしだったんです。それでもこの人は我慢強くて、ひざから切り落とされても冗談いっているんです」
当時16歳だった上原さんたちが、切断した手や足を山中に埋めに行ったことや、戦況が悪化するにつれ兵士たちの心も不安定になり、命令に従わない兵士が切られたことがあったことなども語られました。
米子さん「日本の部隊の副官に袈裟懸けに日本刀にやられて炊事場の前でたおれていたんです。そういう風に戦時中は同じ仲間にやられた人もたくさんいる」
当時の上原さんと同世代の高校生たち、何を感じ何を思ったのでしょうか?
ことねさん「野戦病院の話がわらなくてもっとききたいんですけど、教えてくれませんか?兵隊さんたちと一緒に行動してとかしなかったんですか?バラバラになったとしても」
米子さん「兵隊さんたちとずっと歩いてついていった人たちもいます」
ことねさん「おばあちゃんがなぜ語らなかったかっていう理由がわったし、生きるか死ぬかの瞬間だったのでとても怖いと思いました」
上原さんの体験を聞いたことねさん。一週間後、祖母の久高サエ子さんと一緒に、なごらん学徒の歴史を振り返る企画展を訪れていました
戦争のことを語らなかった祖母の久高さん。写真を見ながら、重い口を開きました。弟が栄養失調で亡くなったことをこの日初めて孫に語ったのです。
ことねさん「おばーもいろんな体験したんだね。戦争中、家族で逃げたのか?それともバラバラで逃げたの?」
久高サエ子さん「自分の弟をおんぶして一緒に二人で下りてきたわけさ。骨と皮になって、お母さんもおっぱいも出ないし、食料もあまりないもんだから。聞きたいことがあったら聞いてちょうだい」
ことねさん「いっぱいあるよ」
久高さん「わかるのは教えてあげる」
地域の、そして身内の戦争体験を知ったことねさん。これを語り継ぐことを心に決めていました。
ことねさん「親戚が死ぬとか親が死ぬとか、嫌だなって思う。おしゃべりは上手だけど、人に聞かせるのがあまり上手じゃないから、(戦跡を)巡りながらこんなことがあったよ、こんな話があるよっていうのを言ってみたいし、やってみたいと思う」
久高さん「気持ちがすーっとした。ありがとうね」
体験者の方々には、まだ胸の使えが取れない思いの人もいっらしゃるでしょう。その思いを私たちが聞いてつなげなくてはなりません。
最近では、平和教育のマンネリ化などともいわれ危惧される面もありますけれど、情報を受け取ってどうするかを考えるプロセスが大切です。体験者とは同じように語れなくてもそれぞれが辿って、行動するその一歩が二度と戦争を起こさない世の中につながるのではないでしょうか?