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5・15 復帰企画です。きょうは、40年前の復帰の日を人生の節目に重ねた夫婦の話題です。なぜ、この日に結婚式をあげたのか?その意味と二人が復帰から40年どう見つめてきたのかをお伝えします。

金城健一さん「5月15日ってお二人にとってどんな日ですか?記念日すべき日だよ。」金城弘子さん「あの復帰のことをまた考えざるを得ない日ですね。」

この日を格別な思いで迎えているのは、大宜味村に住む 金城健一さんと弘子さん夫妻です。

健一さん「畑の前節目節目の5月15日は、辺戸岬まで二人で行って・・・」「その見えない線の27度線を確認しに行っているきょうもこれから行こうと思います。」

車の中40年間変わらず結婚記念日には北部までドライブをする二人。結婚の喜びと復帰とは何だったのかを問い続けるためです。

那覇市役所で市長の秘書として勤務していた金城健一さんと小学校の教師だった弘子さんは、1972年5月15日。復帰が実現したこの日に結婚式を挙げることを決意しました。

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当時、結婚式の案内状には、こんなことを書いていました。

「1945年。戦争っことして生まれた私たち。27年間沖縄の返還運動の中で育った私たち。叫び続けてきた返還が5月15日として突きつけられても、27年の歩み重み、27年の感動が伴わないのはなぜだろう?」

アメリカ軍の統治下に置かれた沖縄にとって、「権利が守られ、基地のない島にしたい」と復帰に大きな希望を抱いていいました。しかし、あまりにもかけ離れていた内容に、空しさを覚えたといいます。

健一さん「返還の中味というのが、那覇市長の秘書の随行で何回も政府交渉していく中で、これはホントにお祝いだけのものじゃないって」

15日は、大雨の中復帰の記念式典と復帰に異を唱える抗議集会が開催され、通貨もドルから円に換わりました。金城さんの友人たちもデモに参加した後 結婚式に出席していました。

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また、健一さんは高校時代2度、パスポートを持って全国弁論大会に出場。アメリカ統治下の沖縄の現実を本土の人たちに訴えました。

そのとき、本土のマスコミの質問にショックを受けます。健一さん「沖縄から来たといったら英語の弁論大会か?と聞かれましたよ。それはかなりショックだよ。」全国弁論大会に参加し祖国復帰の思いを訴え2度全国優勝を果した。

辺戸岬について 健一さん「与論島は、ちょうどこの闘争碑のすぐ後ろに見えるはずなんだよ。」「ほらほら見えてきた。ほら見えたね。」

復帰闘争の原点ともいえる場所 辺戸岬。本土の大学に通っていた健一さんは、学生の頃与論側から海上集会に参加。母親と国境のあった北緯27度線で再会しました。

健一さん「これは、すごい感動でしたよ。海の真ん中 27度線よりもまだ与論側に本土側に近づけろ近づけろいって」「それだけ沖縄の人たちの心は 早く本土に返せということだったと思うね」

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復帰すると、平和憲法のもとで基地のない穏やかな日が来ると信じて闘ってきた健一さん。40年経った今も、なかなか動かない基地問題について国境だった北緯27度線は、いまだ存在するのではと感じています。

健一さん「北緯27度線んも取っ払われているはずなのに、いわゆる日本政府の沖縄に対する政策だけは取っ払われていない。依然として40年 27度線が引かれたままであるということは許せない」

40周年結婚記念日おめでとう乾杯!「ありがとうね。」40年の月日が流れ子や孫にも恵まれた金城さん夫妻。「復帰を問い続けたい」という思い、子どもちは、どう受け止めているのでしょうか?

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長女まきさん「自分が結婚して子どもが生まれてきたりすると、基地がないことにこしたことはないというのをもっと、さらに考えたりする」

次女 歌奈子さん「去年私も一緒に両親と一緒に基地反対の人間の鎖に参加したんですよ。そのときに改めて沖縄の復帰というのを思いました。」

孫のはなりちゃん「5月15日は結婚記念日ということしか頭に無かったけど、なんかこういうことを聞いているとやっぱ(復帰という日を)考えたほうが良いかなって思いました。」

金城さん夫妻の思いは、子どもそして孫へと受け継がれています。

健一さん「結婚50年のいわゆる復帰50周年をこの目で見ることが出来たときには、しっかりと40年前に本土政府が沖縄に約束したことを実行していてくれる日本であってほしい。」

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弘子さん「復帰とは子どもたちの平和な未来を考えるスタートみたいな気がします。ずっとずっと考え続けなくちゃいけないでしょうね。」

スタジオ「復帰後世代の私にとって正直、復帰といわれてもあまりぴんと来なかったんですが、1945年の沖縄戦。そしてアメリカ軍に統治されていた時代今ある沖縄の状況が一つの線として点と点が結ばれたような気がします。」「実に、一貫して訴えていることはシンプルで「戦争につながる基地は要らない」ということ、声を挙げ続けなくても実現している世の中になって欲しいものです。」