ことしも残すところあと2週間あまり。きょうからステーションQでは6つのテーマで2011年を振り返ります。「2011これから」。きょうとあすのテーマは「震災」です。
東日本大震災からおよそ9ヶ月、ここ沖縄にもおよそ800人の被災者が避難生活を送っています。沖縄に必死の思いで避難してきた人々。沖縄はどう受けいれ、そして彼らは沖縄をどう感じたのでしょうか。
宮城県で漁師をしていた大友康広さん。震災で船を失い、身重の妻を連れて沖縄に避難してきたのは、震災から10日後のことでした。
大友深雪さん「空港着いてすぐ泣いちゃって。家もないし、お金もない、仕事もない、友達もいないし、どうしようと思って。もうなんか体中冷たくなって、怖くて」
沖縄での生活は不安だらけのスタートでした。
地元の自治会はそんな2人を励まそうと懇親会を開きました。
大友康広さん「ありがたく使わせていただきます。ありがとうございます」
『何がほしいかわからないからとりあえず聞いてと思って。食器を入れる何かがあれば。OK、大丈夫まかせといて』
暖かい言葉が不安な気持ちを溶かしていきました。
この日、宮城県人会では被災者支援会議が開催されました。
被災者「もし県営住宅に入れないと、自力でアパートを借りるのがすごい難しい。保証人だとか」
康広さん「(友人から)こちらに入りたいって連絡は入る。(沖縄県に)基本的に(住居申し込みは)どういう方法ですかって聞いたら、郵送かファックス。ファックスもなくて郵送もできない」
支援したい沖縄行政とそれを求める被災地。しかし、情報は混乱している上、交通も通信網も破壊されている状況では、その「支援」もなかなかうまくいかない実態がありました。
沖縄県では現在、民間住宅を県が借り上げるとともに、住居が決定するまでの宿泊施設(3食付、最長1ヶ月)も提供する措置がとられています。
康広さんは美ら海水族館に仕事を決めました。そして6月には大友家に待ちに待った命が誕生しました。
沖縄の生活にもなじんたように見えた康広さん。しかし胸の中には複雑な思いがありました。漁師への思いが消えなかったのです。
深雪さん「保健師さんがまめに見に来てくれたりとか、近所の方が助けてくれたので、不安になることなくやっていけました」
11月、沖縄で穏やかに子育てに励む深雪さん。しかし、そこに康広さんはいません。
いまだ震災の爪あとが残るふるさと。それでも9月、康広さんの実家は漁業を再開させました。漁師の血がさわいだ康広さん、実家を助けるためふるさと・宮城へ戻ったのです。
康広さん「風呂場や家の屋根が(網に)ひっかかってきたりだとか。なかなか今までどおりにはいかない。自分たちが先頭を切ってやっていかないと、本当の復興とか生活の建て直しっていうのはないと思う」
深雪さん「やっぱりあの人は海に帰る人なんだと思いました。海にいないとなんか表情も変わってきて」
深雪さんも故郷に帰ることに。その深雪さんの手には沖縄のお守りが…。
深雪さん「こんなに離れがたくなると思わなかった。みんなとりあえず生きていればいいかなって」
『あーいた、元気でね…』『会えないと思った、元気でね』
深雪さん「沖縄のみなさんありがとうございました、がんばります、あっちでも、本当に」
この笑顔が続くよう、来年も被災地を見守る心を忘れてはいけません。