アメリカの公文書館などに収められている沖縄戦の記録フィルムを買い取って上映し、沖縄戦の実相を伝え続けている1フィート運動の会。会の設立からことしで25周年を迎えました。この1フィート運動の会がこの週末、集団自決のあった渡嘉敷島で上映会を開きました。上映会には遺族にとって思わぬ人も駆けつけてくれたようです。島袋記者です。
先日、渡嘉敷島で開かれた沖縄戦のフィルム上映会。子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会、「1フィート運動の会」が設立25周年を記念して開いたものです。
1フィート運動の会・まよなかしんや事務局次長「しっかりと子どもたちに沖縄戦の実相を伝えていくと、そういうのが背景にあって、1フィート運動を発足したんです。まさに25年経った今、振り出しに戻った」
「1フィート運動の会」が企画した渡嘉敷島平和ツアーには12人が参加。中には、集団自決で家族を亡くした人もいました。宮城千恵さんの祖父、真喜屋実意(まきやじつい)さんは村長や校長を務めた人物です。アメリカ軍が上陸すると、島の人たちとともに集団自決で命を絶ちました。
宮城さんは去年絵本を出版しました。「A LETTER FROM OKINAWA」は、母・幸子さんの目線を通して、戦争の悲劇を伝えています。渡嘉敷島を出て、沖縄本島の高校に進学した幸子さん。戦争が始まると看護隊として召集されます。同級生たちが次々と犠牲になる中、島の両親に無事を伝えようと手紙を書きますが、返事はとどきません。なぜなら両親は集団自決で命を絶ってしまっていたからです。
宮城千恵さん「今私たちができることは、体験者に、辛うじて生きてきた方々に、どうやって生き延びることができたのか聞いて、それを残していくことじゃないかと感じて」
上映会を前に宮城さんたちは戦跡を訪ねました。ここは多くの人たちが集団自決で亡くなりました。
宮城千恵さん「緑がいっぱいで、生の息吹が感じられて。こんなところでたくさんの人が亡くなったのが信じられないです」
宮城千恵さん「真喜屋実意というのがおじいちゃんで、これがおばあちゃん。この名前を見つけたときに、最初すごい衝撃を覚えました」
上映会は夕方から始まりました。そこでは思いがけない出来事が。宮城さんのお母さんや祖父母の知人が大勢駆けつけてくれていたのです。
宮城千恵さん「おじいさんはどんな人だった?」
「いつも朗らかで、酒を召し上がって、みんなを笑わせて。おばあさんは本当に女らしいおばあさんだったよ」
一度も会ったことがない祖父母。しかし、宮城さんは島の人たちを通して、その存在を感じることができたといいます。
宮城千恵さん「見えないけれど、おじいさん、おばあさんの足跡があちこちにあって、感動しました。本当にこの島で住んでいたんだなあ、こんなきれいな島で住んでいたんだなあと」
宮城千恵さん「私は祖父母との出会いを通して、見えない命との出会いを感じて、命の大切さ、そのことを伝えたいのだと感じていて」
上映会ではアメリカ軍の慶良間上陸の様子が映し出されました。訪れた50人のほとんどが戦争を生き延びた人たち。映像を見て、口々にこう語りました。
「戦争はもうイヤだなっていうことしか感じないですね」「もう大変です、これからも戦争はやらないでくださいって言いたいです」
25年間、沖縄戦を伝えるため、そして平和を発信するため活動してきた「1フィート運動の会」。メンバーは20人、全員が50歳を越えましたが、会の役割を改めて実感した上映会だったと話します。
まよなかしんや事務局次長「学校現場の先生方も戦争体験者がいない。そういう中で実相を伝えるためには生きた証人、1フィートのフィルムは大事なものだと思う。若者の参加する運動を作っていく、それが25周年の課題だと切実に思っています」
亡くなった祖先の知人に出合うことで、集団自決の犠牲者の生きていた証を肌で感じることが出来た上映会でもあったわけです。
集団自決については去年、教科書検定で日本軍の強制の事実が歪められ、沖縄戦の実相を語り継いでいくことの難しさをあらためて思い知らされています。実相を後世に伝える大切な活動を続けている1フィート運動の会、私たちが出来ることは何なのかを考えることも大切だとあらためて感じさせられます。